自分の周りに起きる出来事は、ことごとくつまらない。
仕事も給料が安い。
たまに受けた仕事もクレームばかりでやりがいがない。
上司も口うるさい。
家族とも仲が悪い。
家の中も汚いし、嫁も文句ばかりで、仕事から帰ってきても、まったくくつろげない。
金がないのに車検が来た。
金がないのにスピード違反で捕まった。
なんでこんなにろくでもないことばっかり起こるのか。
いったい、どうしたらいいのでしょう?
ま、こんな相談を受ける時があるんです。
こんな時、宗教者はどう答えるべきか。
何が原因ですか。
先祖ですか。
水子ですか。
墓ですか。
土地ですか。
井戸ですか。
家相ですか。
稲荷ですか。
狐ですか。
厄年ですか。
こんな単語を、さも難しそうに並べてみると、なんだか宗教くさくて本物っぽいのかもしれない。
ただ、自分自身以外の何か別のもののせいにしても、それを証明しようがないし、根本解決ができない。
確実に言えることは、
『今のあなたに起きてることは、今のあなたにちょうどいい』
ということです。
今のあなたの職業は、あなたが選んだつもりでいるかも知れないが、実は違うのです。
あなたよりも先に仕事のポストがあって、この仕事をやってくれるにふさわしい人材を、多くの人間の中から仕事があなたを選んで配置しているのです。
どうでもいい仕事には、どうでもいい人間があてがわれます。
たいした仕事じゃないなら、たいしたことない人間が配当されます。
重要な仕事には、やはりそれだけの人間が選ばれる。
あなたは今の職場の文句を言ってはならない。
なぜなら、その職場に最適な人間である、あなた自身の首を絞めることになるからです。
何かの霊的なものせいにすると気は楽です。
おれの不運は、何か得体の知れないもののせい。
おれは悪くない。
こんな楽な責任転嫁はないよ。
もし、あなたがひとつも間違っていないのならば、おそらく自然の摂理に従って、あなたは必ずうまくいく。
しかし、現にあなたの状態が良くないのなら、おそらくはあなたはどこかで間違っているのでしょう。
空手の大会で、誰もが一喜一憂しますな。
大会では、試合に向けて準備したあなたに最もふさわしい結果が現れます。
勝ちたい気持ちがめっちゃ強くて、めちゃめちゃ練習して、完璧な調整をしてきた選手には、やはり優勝がふさわしい。
準優勝の人は、やはり準優勝になった理由がある。
優勝者に、どこか負けてるところがあるのです。
同じく、三位の人、予選敗退の人、一回戦敗退の人、その結果がよくお似合いです。
冷たく切り捨てているわけではありません。
もちろん長期的な意味もあります。
将来の大成功のためのステップとして、今のあなたにはこの結果がないと次のステージには移れないから今回の敗北がある、なんてことも当然ありうる。
それを、目先の敗北だけを見て、将来の可能性をはかなんで、空手をそこでやめてしまうのなら、その人にはやはりその敗北がお似合いです。
その敗北が悔しくて、次こそ絶対に勝ってやる!と奮起して、バリバリ練習して強くなって次に結果を出したのなら、長い目で見るとやはりあの日の敗北は、あの時のあなたに必要な敗北だったのだ。
将来のことなんて、全て、自分の心が決めることです。
いつも愚痴を言う人は、愚痴を言うネタが豊富な環境がお似合いだから、次から次へと悪い事件が起こります。
いつも感謝している人には、より感謝がお似合いな出来事が次から次へと起こります。
彼氏の文句ばかり言ってる女は、彼氏が変わるたびに男のレベルが下がります。
職場の文句ばかり言ってるサラリーマンは、転職するたび待遇が悪くなります。
今のあなたに起きてることは、今のあなたにちょうどいいから。
一念三千。
全ての世界はあなたの心の中にある。あなたはチャンネルをどこの世界に合わせるか。
『地獄というも浄土というも、他には候わず。全て己の胸中にあり。』
あなたの心の中の状態をまるで鏡のように映し出すのが世の中であり、これに迷うを凡夫といい、これを悟るを佛という。
『自分が不幸な時、それを他人や社会のせいにするのは無教養者。
自分を責めるのは教養の初心者。
他人も自分も非難しないのが本当の教養人である』(古代ローマの哲学者、元奴隷、55~135、エピクトテスの言葉)
そうこの世の中を観じて生きていくことこそが本当の修行なのでしょう。