豊臣兄弟、備中へ。

2026年の📺NHK大河ドラマ『豊臣兄弟』のストーリー進行は、主人公兄弟の姓が木下から羽柴へと変わって、まもなく織田軍(羽柴軍)が中国地方へやって(日本史的には『本能寺の変』🔥が近いってことの方が要点になりますが。)来ます。とりわけ、現在の【岡山市北区】が舞台となる『備中高松城の水攻め』⚔️🌊エピソードは有名です。そして、この戦いには『日蓮宗』の寺院が縁(ゆかり)を持っています。

まずは簡単にこの戦いを追ってみます。

近畿地方を攻略した“織田信長公”は次なる目標として“毛利輝元公”が治める中国地方に侵攻します。岡山南東部を治めていた“宇喜多直家公”を取り込んだことで、この【備中高松城】周辺が要所となるのですが、この城は湿地帯に築城された「沼城」で、沼地が天然の堀となっていたことから鉄砲隊や騎馬隊を使った力攻めが困難で、城主“清水宗治公”は籠城🏯して応戦します。
攻めあぐねていた織田軍ですが、軍師“黒田官兵衛公”が「城の周囲に堤防を築き【足守川】を決壊して城を水没させる」という奇策を思い付きます。“秀吉公”はこの案を受け入れ、長さ約2.7km・高さ約7mの堤防を12日間で構築。季節が梅雨の時期だったため、降り続いた雨によって足守川は増水🌊。足守川の水が城の周りに引き入れられ、ついに【備中高松城】は孤立・浸水。毛利軍の援軍が到着しましたが何もできない状況でした。
この状況に“輝元公”は、“秀吉公”に備中・備後・美作・伯耆・出雲の国譲渡と、“宗治公”と城内兵士達の安全を条件とした講和を申し入れます。これに対し“秀吉公”は、5ヵ国の譲渡は受け入れたものの、“宗治公”と兵士達の安全については拒否。和睦交渉は決裂したかと思われた矢先、秀吉陣営に「“信長公”が“明智光秀公”に討たれた」と言う『本能寺の変』🔥の一報が入ります。“秀吉公”は主君の敵討ちを最優先するため条件を緩和することを選択、“信長公”の死を厳重に隠しながら「3日以内に和睦すれば、領土譲渡を備中・美作・伯耆に減しての3ヵ国にし、“宗治公”以外の兵士達は助ける。」ことを提案しました。
この条件を聞いた“宗治公”は、主君である毛利氏の安泰と、兵士達のために切腹を決意し、水没した城から小舟で出向き、両軍見守る中、舞を踊り、辞世の句を詠んだあとに果てました。“秀吉公”は、その振る舞いの見事さに「武士の鑑」と嘆賞しました。
【岡山市公式観光情報 備中高松城跡】

“宗治公”の切腹を見届けた“秀吉公”は、毛利方に悟られぬよう、すぐさま軍をまとめ、“信長公”の仇を討つため、京都へと全軍を率いて進軍を開始。『中国大返し』🏃‍♂️‍➡️のエピソードへとなります。

さて、それではこの『備中高松城の戦い』⚔️ゆかりの日蓮宗寺院を二つ紹介しましょう。
まずは『最上稲荷尊』🦊で有名な【最上稲荷山 妙教寺】。当時は『天台宗』で、この戦の際に焼亡し、江戸時代に『日蓮宗』寺院として再築されることになるのですが、この境内、旧本殿(霊応殿)脇から南東へ向けての遊歩道を登った先の【龍王山】にあるのが、“秀吉公”が中国攻めの際に最初に陣を敷いて軍議を行っていたと伝わる【一の丸(秀吉本陣)】になります。備中高松城下をはじめ、要所が一望できる場所です。そして、この【一の丸】へ続く道の途上には【備中高松城】の守護神と伝わる“北辰妙見大菩薩”が祀られている【妙見堂】があります。

もう一つは、現在は公園となっている【備中高松城跡】のすぐ近くにある【高松山 妙玄寺(コウショウザン ミョウゲンジ)】。別名【水攻寺】と称されるこの寺院は“宗治公”が自らを犠牲にして自刃した地に建立されており、境内には“宗治公”の供養塔🪦があって多くの歴史ファンが訪れています。毎年6月の第1日曜日には公園内の【高松城本丸跡】にて『宗治祭』の大祭が執行され(偶数月の第2日曜日には月例祭も執行。)、また、“宗治公”の遺徳の精神「捨身飼虎(しゃしんしこ・・・『金光明経』で説かれる、お釈迦様の前世である薩埵王子が、飢えた母虎とその子虎たちを救うために自らの肉体を与えたという説話)」の文字が入った「覚悟と決断を持った統率する力」の『お守り』や『絵馬』が取り扱われています。

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