妙勝寺信楽会の「古文書くらぶ」も、新型コロナウィルス感染症の影響で4月から活動を自粛しています。
そんな活動低下の中ですが、安井正文さんを中心とした青江講中の古文書くらぶの皆さんが、自主活動として地元に残っていた明治時代の公文書から、当時大変流行していたコレラ禍の実態を明らかにする活動をしました。
青江講中の中心に青江公会堂がありますが、明治初期にはここに戸長役場(現在の町村役場の前身にあたるもの)が置かれていました。そのため戦災を免れた当時の公文書が、現在もここにいくらか保管されています。その中に明治12年に日本中で大流行したコレラの岡山県における実態が分かる史料、「岡山県布達」ならびに「官省広布布達」がありました。安井さんたち古文書くらぶのメンバーは、この布達綴りからコレラに関する史料をピックアップすることにより、当時の様子を明らかにしました。
※布達=明治19年(1886)以前に発布された省令、府県令などの行政命令。
明治12年、全国で患者数16万2637名、死亡者数10万5786名を数えたコレラの大流行は、明治時代に何度か繰り返したコレラ大流行の中でも、最大規模のものでした。
この年、岡山県では9084名の患者が発生し、4949名の方が亡くなっています。
「岡山県布達」には、県内で最初に患者の発生が確認された5月28日以後、数日おきに「岡山県報告」の形で各地域におけるコレラ患者の発生数・死亡者数が報告されています。
コレラ患者の最初の発生は、児島郡(現在の倉敷市児島・玉野市)と浅口郡(浅口市・玉島)でした。港町からコレラは始まり、その後県南部に広がり、人口密集地であった岡山区(岡山市中心部、旧城下町)で感染は一層拡大し、ほぼ全県へと波及しました。(唯一県東北部の吉野郡(西粟倉村・美作市東部)だけはこの年、感染者を出すことはありませんでした。)
最も被害が多かったのは上道郡(岡山市東部)の患者1074名・死者373名。妙勝寺を含む岡山区は患者905名、死者253名。青江講中を含む御野郡(岡山市南部)は患者834名、死者232名を数えました。
5月に始まったコレラの流行も、8月上旬に感染のピークを迎え、8月下旬頃から患者数は減り始め、11月20日の患者数4名を最後に報告は終わっています。11月には終息したようです。
コレラの特効薬が無かった当時は、隔離と予防が対処法であったようです。
「官省広布布達」の中に、明治12年6月27日、太政大臣三条実美の名前で出された「虎列刺(コレラ)病予防仮規則」があります。24条からなる規則で、届け出や隔離・予防について定めています。
例えば、第十二条には「虎列刺病患者は必ず室を異にし、看護人のほか家人たりも妄りにこれに近づくべからず。且つその家族は患者治癒あるいは死亡の後、十分の消毒法を行い検疫委員の許可を得るにあらざれば他人と交通するを許さず」とあり、現代の隔離のあり方と共通するものがあります。
その他、史料には日常予防の心得や簡単な生水濾過装置の作り方の絵や避病院(伝染病患者の隔離収容を目的とする伝染病専門病院)の図などもあり、当時の生活の様子も伝わってくるようでした。
「岡山県布達」の報告書にある患者数・死亡者数を拾い上げ、エクセルを使って網羅的な一覧表を作成した安井さんは、「明治12年という時代に、数日おきに患者数・死亡者数を丁寧に記録して、各戸長役場に届けていた当時の行政の仕組みに驚きました。日本では当時からきちんとしたシステムが成り立っていたのだと思います」と語っていました。
現在も新型コロナウィルス感染症という新たな疫病により、多くの感染者や死亡者が出ており、社会が正常に機能しない状態が続いています。今回青江講中の古文書くらぶの皆さんが発掘した明治12年の岡山県のコレラ禍の史料を見るにつけ、日本人がこうした疫病を乗り越えてきた過去の姿に勇気づけられる気がします。
青江講中の古文書くらぶの皆さんの素晴らしい活動だったと思います。