進歩と調和

この記事は最終更新日から1年以上経過しています。
記事の内容やリンク先については現在と状況が異なる場合がありますのでご注意ください。

 親戚や故人の有縁の方に集まってもらい、お寺に出向いたりお坊さんを宅に来て頂いて行う法事。さて、どんな意味があるのでしょうか?
 これは、私が時々法事の時に話す内容です。
 多くの方は、法事は故人のために行うものだと考えているでしょう。故人の死後、少しでも良い所に生まれられるよう、或いは生前に作った罪を減らすようにお坊さんにお経を読んでもらい、そのお経に宿った力、即ち功徳によって供養しましょうという考え方です。
 それなら、お寺に申し込み、お経を上げて頂いておくだけで良いのではないでしょうか。古来から、親類、縁者が集うのは何のためでしょうか。お坊さんがちゃんとお経を上げてくれたか見張るため?
 まさか、昔の人はそういう風にお坊さんを疑いの眼では決して見ませんでした。更に言うならば、尊敬の念を以て集い法事を行ったでしょう。
 現代のように交通の便が良い時代は、日本中、世界中に親類が拡散してしまっています。法事の時や誰かの結婚式ぐらいは集まろうという風には成っているものの、それは現代の様相であって、大昔はそうではない。親類縁者は近隣に固まっており、親類一族の顔を見るのは日常茶飯事であった。にも関わらず、集まって法事をしたのには、お坊さんのお説教を聞き、みんなで故人を偲び、ご先祖様に今生かされていることに感謝し、更に実は、自分たちの為に勉強をしたのです。そして、一族の資質の向上を目指したに他ならないでしょう。
 仏様は、我々一人一人の資質の向上(成仏)のためにお経を説かれています。その意味を解ろうとする事は、とても大切なことです。
 故人のために供養を行う。それ自体法事の目的の一つではあります。一方、生きている我々が仏様の説かれたお経を読み、しかもその意味を知る、或いは何度も何度も読み返して、文字の上にはない仏様の教えや慈悲心を受け取ると言う目的も法事には有ることを理解しておくべきでしょう。
 日蓮宗では、(他宗のことは解りません)お経を真読(漢文を音読みすること)だけでなく、訓読(漢文を書き下し文にして読むこと)で読みます。これは、仏様の説かれた教えをダイレクトに解ろうとする為です。このように訓読で読み重ねていくと少しずつ、断片的ではありましょうが仏様の仰りたいことが解ってきます。即ち読経の功徳というのは、底知れぬパワーを頂くとか思う人も居ますが、そういう邪念的なものではなく、ダイレクトに仏様の真意が理解できる、いわば”知恵の功徳”を頂くことに他ならないのだと考えられないでしょうか。
 私が生きてきた五十年の間に、世の中は様々な変化をしてきました。それは生活スタイルだけに留まらず。人々の慣習や風習、物の考え方も大きく様変わりしつつあります。昭和45年(仏歴2513年、西暦1970年)に大阪で開かれた『日本万国博覧会』のテーマは、”人類の進歩と調和”でした。このテーマは、仏様がいつもいつも私たちに説き続けていらっしゃる本願そのもののように思えます。しかし、実は悲しいかな人類の進歩ではなく科学や物質的な進歩といった感が否めません。人類の進歩は、生活スタイルに有るのではなく、人類自身が個体としての人そのものが進歩しなければ、そのテーマに即しているとは到底思えません。
 人類自身の進歩とは一体どうすればよいのでしょうか。利便性を追求し続けると物欲を増長し、返って後退しているのではないかと懸念されます。協力せずとも個の力で、或いは少人数で物事を為し得られるようになることは、調和を失いがちになるようにも思えてきます。
 生活スタイルの向上、利便性の追求、そういった目に留まるものを進歩さすならば、他方、目に見えない精神文化をも進歩させてこそ人類の進歩と調和のお題目に即したものになって行くのです。
 精神文化を司るものには倫理、道徳、宗教がありますが、我々の周りを見渡すと宗教は常に身に寄り添うが如く存在しているとは思いませんか?例えば倫理や道徳は、一体何処に行けば学ぶことが出来るのでしょうか。そう考えると宗教が担う責任は計り知れないほど大きく大切だとは思いませんか?
 宗教に関わる、所謂”先生””教師”の責任は重大です。

この記事は最終更新日から1年以上経過しています。
記事の内容やリンク先については現在と状況が異なる場合がありますのでご注意ください。

一覧へ