豆から米は出来ない①

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釈尊は、涅槃経の中に
「世の中がだんだん末になるにつれて人の心も益々邪見になり、欲が深くなって僧侶の中にも自分勝手な考えを仏教の中に差し挟んで、ついには乳に水を入れたように何が何だか解らぬものにして、ただ世間の人の気に入るようなことばかり説いて、多くの人から生き仏のように敬われるような者が多く出てくるであろう。その時に一人か二人の正直な僧があって『それは皆間違っている。本当の教えはこれだ。』といえば却ってその人を憎んで悪口を言うような時代が必ず来る。その時には説く人の身分が高いとか学問があるからとか大きな寺に住んでいるとかいう様なことだけを見て、軽々しくその人の説を信じてはならない。いかに身分は賤しくても経文に一致した教えを説く人であれば、それを師として人生の一大事を学ぶのでなければ仏教とは言えない『法に依って人に依らざれ』といって仏教を信じるにはまず第一にこの事をしっかりと考えて掛からねばならないぞ。」と仰せられています。
 
さて、釈尊は御年三十から八十までの五十年間に一切経を説かれましたが、初めの四十余年の間は念仏、真言、禅等の諸経を説かれ、最後八年に法華経を説かれました。そして、「四十余年には未だ真実を顕さず」と仰って、四十余年の諸経は法華経を説くための足場で仏に成れる教えではなく、方便であって法華経こそは仏に成れる唯一真実の教えであるということを当の法華経の中には次のように説かれてあります。
 「汝等、未だ曽て仏道を成ずるとは説かず。未だ曽て説かざる所以は、説く時未だ至らざるが故なり。今正しくその時なり。決定して大乗を説く。」
 
これまでの四十余年にはお前達が仏に成れるという教えを説いたことはない。それは、説くべき時が未だ来なかったからだ。今は、正に説くべき時が来たから思い切って仏に成れる教えを説くのだと申されたのであります。また、十方仏土の中には、二も無く亦三も無し…唯此の一事のみ實にして余の二は則ち真に非ず…。と申されて、この娑婆世界はもちろん、弥陀の浄土でも大日如来や薬師如来の世界へ行っても、仏に成れる教えというものは唯々法華経という一つの教えしかないのだ。外に仏に成れる道は二つも三つも無い。だから法華経一つだけが真実の教えであってその他は皆真実ではない…と仰っています。

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