本圀寺 歴史

この記事は最終更新日から1年以上経過しています。
記事の内容やリンク先については現在と状況が異なる場合がありますのでご注意ください。

当本圀寺は大光山と号する日蓮宗の大本山で、その歴史は今を遡ること750年前の建長五年(1253)8月、高祖:日蓮大聖人が鎌倉松葉ヶ谷に御小庵を構え、法華堂と号したことから始まる。伊豆法難後の弘長3年(1263)5月、大光山本国土妙寺として創設された宗門史上最初の祖:跡寺院である。御法難、遠流によって御出入りはあられたものの、22年にわたる立正安国論の国諫運動を展開された、日蓮大聖人の御生涯の中心となるもっとも大切な布教の根本道場である。日蓮大聖人の身延入山および御入滅後は日朗聖人、日印聖人、日静聖人が護山継承され、ときの政治の中心鎌倉にて幕府の強圧と闘いながら、正法宣布の使命遂行に当たられた。  北条幕府が滅び、政治が鎌倉から京都に移った貞和元年(1345)3月、日静聖人の時代、この霊跡大光山は光厳天皇の勅諚によって京都六条に東西二町・南北六町にわたる広大な永代寺領を賜り、鎌倉松葉ヶ谷から京都へ立正安国・国祷護国の大道場本圀寺として移遷されるに至った。  貞和3年(1348)5月15日、日静聖人は光明天皇から「六条本圀寺は日蓮正嫡の道場と為て 殊に閻浮第一の釈迦仏を安ず 今日供養の旨 聞食し訖んぬ 弥々法華の功力を抽て 宜しく四海泰平の精誠を致さるべし者 天気 此くの如し 之れを悉せ 以て状す」という正嫡付法の綸旨を賜り、三位僧都に任命される。日静聖人の父は上杉頼重、母は足利氏の女といい、ときの将軍足利尊氏の叔父にあたるという。このような背景から皇室の庇護と幕府の外護を受け、さらには大衆の尊信を集めて開花隆盛を迎え、記録に残る一大華麗な大堂、仏殿、山門諸堂の大成となり、続いては鎌倉よりの猿畠山法性寺、外四大坊をはじめとする末寺諸坊の移建をみることとなった。  代々勅願道場として栄えてきた本圀寺は西の祖:山とも呼ばれ、数代におよぶ天皇の御綸旨十余通を所蔵している。比叡山延暦寺を御所の艮(鬼門の北東)とすると、本圀寺は坤(裏鬼門の南西)にあたり、その配置からも平安京皇室の鎮護の祈願所たる権威をうかがい知ることができる。  三位日静聖人は日蓮大聖人および日朗聖人、日印聖人の遺誡を守り、妙顕寺日像聖人の帝都弘教に併せて本圀寺を双輪の道場とする偉功を建てた。日静聖人に続く五祖:日傳聖人以降は六条門流の隆盛期に入り、法運は年と共に栄えた。光厳・光明天皇以来皇室の信仰も篤く、足利尊氏の外護もあり、右大臣菊亭公の菩提寺、豊臣秀次の母・現宗門唯一の門跡寺開山村雲日秀尼得度の山でもある。強信の士加藤清正公は法華一千部読誦の祈願所、水戸光圀公は当寺の復興に尽力し、法華懺法会を修し自筆の山額を納めた。  天文5年(1536)の天文法華の法難で灰燼に帰し堺の末寺成就寺に逃れるが、同11年(1542)勅令によって帰洛し、再建に着手する。同16年(1547)、六条に再建、本尊遷座。天明8年(1788)の大火では経蔵などごく一部を残して類焼。僧房も大きな被害を受けたが、その後は歴代諸聖人の護法捨身の丹精により、順次再建復興が成されていった。  後代に日助・日禛・日垣・日圓・日解・日陵・日隆の諸聖人、また日重・日乾・日遠の三師、莚師法縁の祖:・日莚、達師法縁の祖:・日達、三村日修・旭日苗、浜井日成等の諸先師が、当寺およびその求法檀林の法座より起ち、宗門史上に不滅の法勲を残している。なお、伝師の資日尚聖人は本山本満寺を、圓師の資日堯、日澄聖人は韮山本立寺を創建され、また、身延法主、中村檀林化主の歴代先師も数多く輩出している。  時を経て本寺末寺の解体、敗戦による農地改革、寺所の散失などの時運に抗し難く、護山の不詳も相まって山門の衰勢その極みに達する。昭和46年(1971)、宗命を受けて特撰の第63世伊藤日瑞上人が現在の京都山科区御陵に移転、伽藍を再建して中興の任を果たし、現董久村日鑒上人は重ねて荘厳して展望を開く。鎌倉より京都に移転し、旧末寺六百余の六条門流の基を開いた当寺の再移転復興には、全宗門の期待と支援の声が寄せられた。妙顕寺の四条門流と双輪して、史上に嚇々たる法勲を遺した往時から、今や新しい法運隆昌の時代を迎えようとしている。山科の境内は琵琶湖より引く疎水の岸に添い、東山を背にした山紫水明の寂境である。天智天皇御陵と並び、桜並木と美しい幹の松林に包まれ、四季折々の風情に彩られている。新たな大本山本圀寺の寺地にふさわしい土地柄といえよう。

この記事は最終更新日から1年以上経過しています。
記事の内容やリンク先については現在と状況が異なる場合がありますのでご注意ください。

一覧へ