当山のいわれ シンピノシルシ(霊験) 

当山は、織田信長の父君信秀公の時代、天文十年〜十六年のころ大垣城の北東の砦として創建されました。北の通りからお寺の横を通る道は美濃路であり、大垣城下へ入るはじめの要所でした。

不思議なことに当山から南西の中心線を引いていくと裏鬼門に宝光院があり、養老の滝をかすめ紫香楽宮を通って奈良平城京の中心を貫き、元薬師寺があった観音池に至ります。この鬼門線から先人は何を汲み取ったのでしょう。

遡って壬申の乱の頃、西濃地域は大海人皇子(天武天皇)の乳母や巫女を太安万侶の父太品治が養ったところとされます。その孫聖武天皇はついに大仏殿を日本に出現させました。

江戸期元禄四年、充足院日東上人は身延山から七面大明神をご遷座し、城主戸田家の祈願所として当山を生まれ変わらせました。犬坊丸はさぞお喜びのことだったでしょう。七面さまは龍女の神様、一説には豊玉姫(山幸彦の妻)の姉、わだつみ神の娘、わだつみ神は八大龍王中釈迦羅龍王・・・。
七面さまは「鬼門を閉じて七宝を開く」霊験で人々を救済する。
「こわいけど怖くない」力を与えるセムニノカギを使う。
豊穣・子宝・七難即滅七福即生の神様。

そして、
近代となって、天台座主の弟子覚圓上人は倶舎論の講師をつとめる学者でありながら、荒行を修し、運命学と仏法と神秘の力を合わせ人々の身の病、心の病、商いを治める先達を育て「人尊きがゆえにところ尊し」の精神で社会に尽くされました。

一覧へ