律令国家の崩壊と山岳信仰

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 律令国家が崩壊すると当然、官の庇護も廃され、各地の国分寺は衰退して廃寺となっていった。当山伊豆国分寺も同じ運命であった。治承二年(1178)、当山別当慶基が総国分寺東大寺へ訴え、院宣(官の勤募証書)下文を申請した文書が残されている。寺がいかに疲弊していたかの事例である。さらに平安末期には、古来の神道と密教とが習合した山岳信仰が盛んになり相当の規模を有し、門前左右には塔頭寺院が並び、多くの僧侶信者が往来した。三島の八小路の一つ、阿闍梨小路(訛ってアジャラ小路)として昔を偲ばれている。
 時は移って戦国時代になると、当地は小田原北条軍と甲斐武田軍との戦場の巷と化して像塔伽藍一切が烏有に帰した。尚、発掘調査で出土した古代瓦群が三島市立郷土資料館に展示公開されている。
 ようやく戦乱が治まり江戸時代になって、前述のように再建されたのが寶樹山蓮行寺なのである。

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