現在の伊豆国分寺は大本山富士山本門寺末の日蓮宗の寺院である。日蓮宗は宗祖日蓮大聖人(1222~1282)が鎌倉時代に立教開宗した宗派でお釈迦様を本尊とし『法華経』の教えを中心として実参実修する。寺伝によると、慶長五年(1600)、慈眼阿闍梨日義上人を招へいし、中興開山として寳樹山蓮行寺の名称で再興された。開基は、駿河、遠江、伊豆三か国郡代町奉行職であった井出志摩守藤原正次公である。公は寺域1,200余坪伽藍を寄進して、尊父はじめ一族一門の先祖供養を発願した。本堂裏に七重塔が建立されていたという。しかし、確かな歴史的資料が散逸していて証明することはできなかった。大正期から昭和30年代に多くの専門家が発掘調査を実施してその結果を報告している(詳細『三島市誌上巻』掲載参考)。それによって、創建当時の伊豆国分寺は三島市泉町広小路一帯に建立されていたことが実証された。そして、昭和31年5月、七重塔跡礎石は国指定の史跡となったのである。
家屋が密集しているため、部分的調査ではあったが、創建当時の国分寺は現在の寺の門前塀の東隅あたりに南門を建て、北は本覚寺山門入口、東は蓮馨寺付近、西は市立西幼稚園におよぶ広大な寺域を有した大寺院であったことが分かった。境内は東西80間(約145m)、南北100間(約181m)の長方形に区画され、南北の中軸線上に南門、中門、金堂、講堂、僧坊が並び経蔵、鐘楼が金堂と講堂の中間に置かれ、中門の西南に塔が配置されていた。現在は8個の礎石がほぼ東西に2列に置かれている。このうち2個の礎石は、昭和30年代に塔跡保存棚を造る際に他より移動したという。東側の6個の礎石は、当時のままの位置にある。この礎石は凝灰岩の巨石で、直径1.4m、短径0.8m内外である。礎石面の中央には枘孔(ほぞあな)が打たれている。この枘孔は柱が動かないように固定するための穴で、枘孔の中心から次の礎石の中心までは12尺とあることから3間4面の七重塔であったと推定されている。