春季彼岸会法要

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昨日行われました彼岸会にはたくさんの方にご参拝していただきました。ご都合で参加できなかった檀信徒の方もいらっしゃいましたので、法要でお話しました法話を紹介させていただきます。
お彼岸の中日、春分の日ですが、彼岸とは彼の岸と書くように、
向こう側の岸を彼岸といい、川の手前、つまり今私達が居る所を此の岸、此岸と言います。仏教でいう彼岸とは、悟りの世界のことを表します。一方、此岸とは迷いの世界を表します。春分と秋分に行われる彼岸は迷いの世界から悟りの世界に渡ることを目的とする日本特有の仏教行事です。お彼岸は先祖の墓参りをして先祖を供養する行事だと思われている方も多いと思います。決して間違いではないのですが、正確には先祖供養のみならず今この世に生きている私達も彼岸を目指し修行をする1週間でもあります。仏教の法要ではお彼岸に限らず最後に導師が回向文を読み祈願します。この回向とは回転趣向(えてんしゅこう)といいまして、御本尊様を通して亡き家族やご先祖様の冥福をお祈りすれば、その功徳は転じ向きを変え、生きている私達側にもご利益が回ってくると云われます。この回向を言いかえますと、ご先祖と私達は繋がっていると言うことです。皆さんの亡きご家族やご先祖様があちらで幸せであれば、この世で生きている私達も一緒に幸せになれ、私たちが幸せであればあの世のご先祖も幸せになるのです。仏教ではこの世で私達が信仰によって悟りをひらき幸福になると上七代、下七代に亘って先祖や子孫が幸福になれると説かれております。過去七代前までの全てのご先祖様たちと、七代先の未来の子孫までの幸福が約束されるなんてすごいことですよね。私達の感じる「幸福」には相対的な幸せと絶対的な幸せの2つの種類があります。相対的な幸せとは誰かと自分を比較して、幸せかどうか図ることで、人より財産があるから自分は幸せという物差しです。しかし、人と自分を比べる相対的な幸せには限りがありません。上を見ればいくらでもお金持ちはいて、きりがありませんし、地位や財産がある人ほど余計な苦労が付きまとうという事を皆さんも理解できると思います。光があれば必ず影もあるのが世の常です。私も職業柄、今までに何度も葬儀に関わっておりますが、ごくまれですが、葬儀の際に親族でもめているケースがあります。それは人が羨むようなお金持ちのご家族です。財産がなければこのような骨肉の争いなど起らない訳ですからなんとも皮肉なものです。私はこの白蓮寺の初代住職ですが、お寺は個人の財産ではなく法人の財産であり、私は日蓮宗の建物を一時的に日蓮聖人から、少しの間だけお借りしているようなものです。ですから、自分が死んだ後は法人としてのお寺以外には何も残りません。争いも起らずきれいさっぱりと終わります。もし、皆さんに財産があって、残された親族の揉め事の種になるような場合は、是非事前に白蓮寺にご寄付をしていただき、残されたご遺族が争わないようにして頂ければ幸いです。少し話が脱線しましたが、このように相対的な幸せは本当の幸福とは言えず、苦しみを生む場合があります。一方、絶対的な幸せは文字どおり周りに左右されない揺るぎのない幸せのことです。私はこの絶対的な幸福感を得ることが、仏教の彼岸と言い換えても良いのではないかと思うのです。しかし、彼岸という岸に渡るには、その前に皆さんも聞いたこのある三途の川があるわけですが、三途の川の三途は、仏教では「三毒」を表します。3つの毒とは貪瞋癡(とんじんち)と言い、私たちが持っている煩悩のことです。貪とはむさぼり,欲望のこと。瞋とはいかり,感情にとらわれて正しい価値判断が出来ないこと。癡とはおろか,目先のことに左右され世の道理が理解出来ないことです。この三毒の川を渡りきらなければ彼岸へは行けません。小乗仏教(上座部仏教)ではこの煩悩を断ち切ることが大事と説きますが、逆に大乗経では煩悩を断ち切るのではなく、煩悩を良い方向に導くことが大事だと説きます。これを煩悩即菩提と言いますが、私たちが抱えている煩悩、迷いや悩みの中に悟りがあり、苦しみや悲しみの中に救いがあると教えます。皆さんも愛するご家族を亡くされるなどして、本当の苦しみや悲しみを経験して、世の無常を学び、亡くなったご家族の分まで生きることの大切さを悟られたことと思います。最近テレビである話を耳にました。とても庭の手入れが好きであった男性が、ある日大好きなそうめんを食べると、喉を通りづらく感じ、病院へ行った時には、食道癌が進行しておりました。病院は入院を勧めましたが、その方は病院ではなく自宅で最期を迎えることを決めました。そして自分の一番好きなことをして死のうと思い、次の春が来た時に孫たちに綺麗な花を見せてあげようと、自慢の庭に色々な花の球根を植えたそうです。残念ながらその男性は次の春を孫と一緒に迎えることは出来ませんでしたが、お孫さんは庭いっぱいに咲いた綺麗な花を見てとても喜んだそうです。その方の死後、枕の下から新聞のチラシが出てきたそうで、ご家族が何かと思いチラシを良く見てみると男性が亡くなる2日前に綴った日記のようなメモが書かれていたそうです。その日記には、「今日はとても良い日であった。明日も前向きに生きよう」と書いてあったそうです。私はこの話を聞いたときに、この男性は生きながらにして彼岸に渡っていたと思うのです。自分の寿命や運命を人と比べ嘆くことなく、ただただ子孫の為に綺麗な花を見せたいという思いから命の限り球根を植えたのです。そしてその1日1日を幸せだと思う。これこそ絶対的な幸せです。この方は必ず彼岸へ渡り成仏したことでしょう。
 
今日はお彼岸にあたり、お彼岸は先祖の供養だけではなく、生きている私たちも彼岸を目指して修行をすること。それから回向の意味について、亡き家族やご先祖様と、この世に生きている私達は繋がっていて、供養とはご先祖様の為だけでなく生きている私達の幸せの為でもあることをお話ししました。次に煩悩即菩提について、私達の悩みや苦しみといった煩悩の中にこそ、大切な悟りがあるということお話しました。そして、最後に人と比べる相対的な幸せを追い求めるのではなく、周りに左右されない絶対的な幸せこそが、私たちの本当の幸福であり、それが彼岸であり成仏であることをお話しさせていただきました。私たちの信仰する法華経は全ての人が平等に仏になれることをお釈迦様が約束している本当に有り難い教えです。この後の彼岸会法要ではその経典の肝心である南無妙法蓮華経を皆さんと一緒にお唱えして亡きご家族やご先祖様にご回向を致しますので、愛するご家族やご先祖様と一緒に皆さんも彼岸へ渡っていただきたいと思います。
 

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