早いもので今年も残すところあと僅かとなりました。今年も皆様には色々とお世話になりましてありがとうございました。来年もどうぞ宜しくお願いいたします。
さて、昨日白蓮寺通信冬号を発送しました。その中の法話を記載させていただきます。
皆さんは「自分で生きている」と思っていませんか。しかし、実際は自分で意識をして心臓を動かしている人は1人もおりません。それどころか、生まれる場所や、病気になる時期、老化現象も自分の寿命さえも思い通りにはなりません。まして、自然の恵みや周りの人の助けがなければ、私たちは1人の人間としてこの世界に生存することすら出来ないのです。
そう考えてみると自分の命は決して「自分のもの」ではなく、「与えられたもの」または「お預かりしているもの」だと気づきます。言い方を変えれば、私たちの命は「大きな生命」のほんの一部分なのです。日蓮宗ではこの「大きな生命」を「久遠本仏」とも呼びますが、私たちを大きな慈悲で見守り導いて下さる教主が久遠本仏でもあるのです。
先に書いたように「生老病死」は自分の思い通りにはなりませんので、私たちは苦しみだと感じてしまいます。思い通りにならないことは、久遠本仏にお任せします、と割り切って生きるのが、離苦得楽(苦しみから離れ、安楽を得る)という仏道の基本であると私は思うのです。仏様がいろいろとお考えになった上で、一番良い場所に命を与え、一番良い時期に病気にならせ、一番良い時期に死なせてくれると信じることが大切です。
しかし、気をつけなければならないことは、人生の全てを仏様にお任せしてはいけません。人生の中で大概のことは自分で変えられます。勉強も仕事も自分の努力や取り組み方次第で良くも悪くも変わるのです。要するに、どのように生きるかは自分で選択しなければならないということです。
では、どのような生き方が良いのか。それを一言で例えるなら、久遠本仏に愛される生き方、神や仏に褒められるような生き方だと私は思います。それは仏教でいう利他行です。利己的にならず、周りの人の為になるように心掛けることが、自分が大きな生命の一部であることを理解した生き方であると思うのです。
久遠本仏に愛される生き方とは法華経の教えを実践しお題目を唱え、菩薩の道を歩むことです。後のことは仏様にお任せすれば良いのです。そうすれば、「生老病死」に不安はなくなるはずです。与えられた命をお返しする日は、自分ではなく久遠本仏が選んでくれるからです。
(康)