オフラインとオンラインの「場」は同質?

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先日、友人の誘いで初めてZoomの勉強会に参加した。時間は2時間程度だが、予想以上に快適だった。当初はオフラインでの集まりが出来ないから代替案としてのオンラインであり、実際に会場に足を運ぶ勉強会の代わりにはならないだろうし、集中もしづらく疲労感が強いのではないか?と斜に構えていた。

しかしテクノロジーの進化は恐ろしく、自宅というリラックスした空間で好きな飲み物を飲みながら参加できるオンラインはとても楽だった。友人のホストとしての取り回しも手慣れており、主催者の力量も影響するとは思うが、今後の展開が楽しみな勉強会だった。
その勉強会のなかで講師がある質問をした「リアルな場」と「オンラインの場」を比べた時に「場としての質は同質のものだと言えるか?」
なかなか考えさせられる質問だ。

お寺の住職という役目上「場」というテーマはよく考える。
お寺は地域に支えられる存在であり、地域に根ざす事で存在価値がある。
地域の縁側になれるように、人と人をつなぎ、心の拠り所にしてもらえるように「場づくり」を意識している。
しかし、それはリアルに集まれる場を前提とした話だ。
今回の様に、外出も出来ない、人が集まれないという事態では、お寺のメリットであった境内が客殿が御堂が「広い」という事が全く活かせない。定期的に「場」を提供し、それが浸透し始めた時期になんとも歯痒い気持ちだ。

今、お寺に頻繁に来てくれる方々は比較的年配の方だ。正直デジタル技術に関する知識は高くなく、どうしてもリアルに集まる場が主体となるだろう。しかし、徐々に世代交代して、私たちの生活にデジタル技術が違和感なく浸透してきたら、お寺との関わり方も大きく変わるかもしれない。
遠方の方は仏壇にタブレットを配置し、法事の時間になったら住職と一緒にお経を読んだり、法話を聞いたり。
相談事がある場合はSkypeで顔を見ながら相談したり出来る。時には仲の良い写経仲間とzoomでオンライン茶話会などもある。
こうなると極端な話、お寺(御堂や境内、お墓など建物)が無いお寺も有り得るのではないかと思う。
遊行スタイルの「ノマド僧侶」だ。
お寺の支出の多くは固定費だ。建物の維持や境内整備費、修繕費などがコストの大半を占める。
もし、建築物(リアルな場)が必要ないオンラインコミュニティで成り立つお寺が出現し始めたら面白いな、と思うと同時に恐怖も感じる。

オンラインの場が想像以上に心地よく、使えると感じ、その質は現状ではリアル程でないにしても、テクノロジーの進化による時間の問題だと思う今、では「リアルな場」である従来のお寺の「場」としての質をどのように高めていけば良いのか?何が強みなのか??
この部分を再考していくことで、オンオフ融合の新しいお寺像が浮き上がってくる気がする。

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