偉そうな事言ってごめんなさい。

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 インド語ペーペーの私が言う事では無いけど、書いてしまいました・・・。
 少しずつ学びながら、ふと気がついた事を忘れないように残しておこうと思ったからです。
 偉そうな事言って、間違っているかもしれませんがご容赦下さい。覚え書きですので。
 
〜私がインドの言葉を勉強する理由〜
 その人の思想を知ろうとすれば、その国の言語を知る事が肝要である。
 人は自然に、使っている言語の構造に沿って思想を張り巡らせるからだ。
 この様な意味に於いて、古代インド語(pāli/sanskrit)を学ぶ事は、仏教を学ぶ上で非常に有益だと思う。
 インド語にはその特性上“Sandhi”(連声)という重要な概念がある。
 “Sandhi”とは文中または語中に起こる音の連結に関する規則事項である。この現象はいずれの言語にも多少の差で認められるが、Skt.においては音変化の結果をそのまま文字に書き表す事を常とするところに特徴がある。
na asti iha (彼はここにいない)→nāstīha.
devaḥ asti(神はある)→devo ’sti.
 この様に“Sandhi”の規則を知らなければ、最も簡単なSkt.文章を1行も正しく理解できない。
 仏教徒は、この様な特徴を持つ言語を使い、教えをまとめ思索を深めていった。
 表面上はひとつ完成形として表れている文章も、読み解く為にはその絡み合った蔦(つた)を解き、一つ一つの単語を露(あらわ)にして理解する必要がある。
 同様に、我々が触れる事が出来る“教え”も表面上見える形は“Sandhi”の結果と考える事が出来る。この場合のSandhiはもちろん音ではなく、地域特性や文化、思想、または他言語だ。仏教が拡がった地域の特性と、教えが重なる時、“Sandhi”を起こし、姿形、表現を変えて(整えて)表に現れ出ているのではないかと推察する。
 表面上は大分異なる様相を呈し、一見別もののように見えるインド初期仏教と日本仏教だが、その違いも絡まっている蔦を解き、深く本質に近づく事で、全ては“dharma”に繋がっているのだと考える事が出来る。
 その様な事を日蓮聖人は『開目抄』に於いて「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(定五三九頁)と仰り、“文底秘沈”という言葉で表現をした。
 我々は表面的な特徴や違いで判断をしがちだが、その奥にある本質を観る姿勢を仏教徒は求められているのだと思う。何より仏教自体がその様な形態をとる宗教なのだから。

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