変毒為薬

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今年は、日蓮聖人が誕生され、800年の節目であります。
この節目に皆様が法華経とご縁がありますことを、今一度深く見つめ直し、百千万劫にも会い難い、法華経とお題目の信心とは何かを感じて頂きたいと思うのです。

日蓮聖人は、建長5年4月28日、初めて、千葉県の清澄山にて、南無妙法蓮華経のお題目をお唱えになられ、法華経、お題目の弘通を志されました。
発心の動機は、様々な言われがありますが、一つには、お釈迦様は、お一人なのになぜ、この様に多くの宗派があるのか、多くのお経があるのか、というものでした。
その発心の一点を考える時、私も同じことを思います。 なぜ、日蓮聖人は、お一人なのに、法華経を信仰する宗派は、こんなにも多くあるのかという疑問です。
法華系、宗派のなかで、どの教えが一番正しいのかというものです。
しかしながら、私も、法華経を勉学していく中で、様々な師に習いました。
同じ日蓮宗の中でも実に様々な解釈があるものだと感じました。
学ぶ中での疑問に思ったことは、解釈による意見の対立でした。
この様に、教えの解釈の分岐点で起こる対立で、多くの法華系、宗派が生まれました。
そこで、私が感じたことは、それだけ、法華経に多様性があるということであります。
多様性というのは、もしかすると、百人いれば、百通りの解釈があるのではないかということです。
そこで問題は、それをよしとするか、よしとしないかであります。
良しとしなければ対立が生まれる、自らの法華経観や解釈を持って、相手の解釈は間違っていると対立が生まれます。
良しとすれば、その様な解釈もあるのかと、その解釈によって、この人は救われたんだな、でも、私とは違うな。という程度に止まります。
法華経は、平等大慧であります。
薬草喩品になる様に、大小様々な樹木が、様々に教えの雨を受けて、様々に吸収する様に、私たち人も、一人として同じ人間はおりません。
自分の信じた法華経、お題目を自分の中で、信じていくことが大切であります。

そして、あなたの信じた法華経を他に説いたとき、必然的にそのあなたの法華経観に共感してありがたいと思った方が、あなたとのご縁によって救われていきます。
そして、忘れてはならないことは、法に依って、人に依らずです。

法は、人によって説かれますが、その人に依るのではなく、法である、教えそのもを頼りとするということです。

日蓮聖人は、
いずれの宗の祖にもあらず、
と仰せになられました。

日蓮聖人は、宗派を作ろうとしたのではないということです。

法華経、お題目の精神は、但行禮拝にあります。
その教えは、全ての命が仏様であるということです。

我深く、汝を敬う、敢えて軽慢せず
故はいかん
汝等、皆、菩薩道を行じて
当に作仏することを得べし

私は、深く、汝を敬います。
決して、軽んじたり、馬鹿にしたりは致しません。
なぜならは、汝らは、皆、菩薩の道を歩んでいて、将来かならず仏様になるお方だからです。
と、頭を深々と下げて禮拝をしました。

これが、日蓮聖人の魂を墨に溶かして書き上げた大曼荼羅の世界観であり宗教であります。
大切なことは、釈迦牟尼仏、多宝如来、上行菩薩等、敬うべき多くの菩薩や諸天善神が書かれるなか、
第六天魔王、悪逆の提婆達多が、書かれていることです。
第六天魔王は、仏教の弘通を妨げる魔王です。
提婆達多は、お釈迦様の命を狙った反逆者です。
その提婆達多こそ、善知識であります。
対立するものこそ、困難こそ、自らの魂を磨いてくれる大切な出来事であり、
敵こそ、法華経信仰を助けてくださる大切なご縁であります。
そうすると敵は、敵ではなくなります。

開経偈には、もしは信、もしは謗、共に仏道を成ずとあります。

信じるものも、謗るものも、共に仏道を成じ、仏となるということです。
法華経を信じるものは、信じるが、法華経を信じない者は、信じないという世界観ではありません。
全ての人を信じるのが法華経です。
如何なる悪人であれ善人であれ、宗教、人種、国境を超えて、ミクロからマクロまで、宇宙の果てまで、その命の尊さを信じて、敬い抜いていくのが法華経の信心であります。

キリストの中に仏を見る
アラーの中に仏を見る
謗法の者に仏を見るのであります。

それが、日蓮聖人の宗教であると私は信じるのであります。

お題目は、毒を変じて薬と為す

自らの中にある毒こそ、菩提への道であり、世界平和への大いなる薬であります。

コロナの毒こそ、返じて、薬と為すものであり、お題目の信心を助けて下さる、仏様からのギフトであると感じております。

私たち法華経信仰者、一人一人が、自らの心の荒廃と乱れを、お題目によって、整えていくことがまず先決で、自らが輝きだせば、自ずと、その光に人が集まってくる様になります。

日蓮聖人の御曼荼羅の世界を、自らの心に観ること、それが、観心本尊であります。

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