上行寺について

上行寺縁起

このお寺はもと真言宗で金勝寺といい、源平壇ノ浦合戦(1185)の頃に出来たと云われています。本堂西側の山際に現在残っている大きな宝篋印塔(約三米)はその頃のもので刻銘によれば牛馬六畜(家畜のこと)の供養塔として建てられました。建長五年(1253)四月二十八日、清澄山で、太平洋より昇り出でる太陽に向かい力強くお題目「南無妙法蓮華経」を唱えられ、立教開宗された日蓮大聖人は、時の政治の中心地鎌倉へ出られて、さまざまな迫害に遭われながらも、国の安泰と人々の救済を願い、命がけで法華経を広められていました。 当時の金勝寺は下総中山の領主・富木播磨守胤継公の武運長久のご祈願所で、鎌倉へ参勤(幕府へお顔出しをする)の折、建長六年十一月、日蓮大聖人が房州二子の浦より再び鎌倉へお戻りになる船に同船なされ、時の経つままに佛法についてお語りあいになり、六浦に着岸された後も金勝寺にて夜を徹し法論は続けられ、ついには日蓮大聖人の教えに帰依なされました。そしてことの次第を金勝寺の住持普識法印に語り、改宗し上行寺と名を改め、法華経・御題目布教の道場とされました。

日蓮宗では歴史深きお寺で、本堂内にはご彫刻の名人「中老僧日法上人」のお造りになられた日蓮大聖人のご尊像がまつられています。ご着岸当時の三十三歳のお若き時のご尊容にして昔から「六浦のお祖師様」として慕われ、多くの信仰を集めております。富木公は、日蓮大聖人の有力なご信者になられ、後にお弟子となって出家され、常修院日常と名乗られ、生涯外護の誠をつくされました。千葉県市川市中山の大本山、法華経寺はその富木公のお邸のあとで、法華経寺初代のご住職になられました。それから数十年たつに中に、上行寺も一時荒廃した時期がありましたが、この上行寺近くの荒井(現在の金沢区瀬戸町)という所に、隔世してひたすら法華経の信仰にはげまれていた荒井平次郎光吉というお武家様がいました。甘露名水を誇った「金沢七井」の一つ「荒井の井戸」はお邸のあとです。自家の領田を寄進し、中山の法華経寺三世・浄行院日祐上人を戒師と仰ぎ妙法院日荷と名を改められ、この寺の法灯をつぎ立派に復興されました。

隣の金沢村の別格本山称名寺の山門に、名匠の作で名高い仁王尊二体がまつられていました。 或る夜、日荷様の霊夢にその仁王尊が現れ、「汝の強い信心と健脚にゆだねて法華経のお山身延山へ連れゆけよ、必ず身延山の護伸とならん」とお告げがあり、早速譲りうけを申し出ても受け入れられず、日荷様も困りはてた所、称名寺住持より賭け碁を申し出られ「吾れ敗をとらば譲らむ」とのことで、やむを得ず領田をかけて勝負をなされ、二勝一敗で勝ちをしめ、一夜の中に身延山久遠寺(山梨県南巨摩郡、日蓮大聖人のお墓のある日蓮宗の総本山)の山門へ納められました。後に身延山では、日荷様の御尊像も一緒に祀られ、何れも現存しております。  身延山にも、法華経寺にも巨額の寄進を度々なされ、非常な経済力と信仰心の篤いお方でありましたことは、両寺の記録に残されています。六浦の渡船場を支配していた六浦得阿弥はその一族であったと言われています。上行寺の本堂の前にある大きな榧の木は、日荷様が身延山から持ち帰られた御手植えの霊木で、七百年近く経って今も尚大きく枝葉をのばし、上行寺の歴史を眺めてきました。その枝葉の下に、温かく包まれるように、日荷様のお墓があります。 文和二年(一三五三)六月十三日、九十二歳で亡くなられました。この日を上行寺の開山忌としています。古来より、賭け碁に勝ったということから勝負運が向くように、また、健脚であったということから足が丈夫でありますようにと、参詣の人が絶えません。

上行寺裏山は、「徒然草」の著者、吉田兼好が草庵を建てて住まわれていたとされ、史跡になっております。 景色の美しいこの土地で勉強なされたのでしょう。兼好の兄は兼雄といい、称名寺、北条二代顕時、三代貞顕の執事としてつかえました。当山西隣りに通称殿谷戸という所があります。ここに嶺松寺という建長寺派のお寺がありました。今は廃寺になって墓地だけ残っています。このお寺は、千葉氏系図によれば、泰胤の娘で北条二代顕時夫人の発願で建立されたものです。妙法院日荷上人が、戒師と仰いだ法華経寺三世浄行院日祐上人は、千葉氏十一代宗胤の孫、胤貞の子となっている所から、兼好はこの六浦に親しみを感じ、詩想ゆたかに勉強のために草庵を建てられたものと思います。太田道灌が金沢山(称名寺裏)に狩をして六浦の里を通った時、にわか雨に会い、笠を借りようと立ち寄った農家の娘から山吹の花を贈られ、「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに なきぞかなしき」という古歌からミノ笠がないという意味を教えられる、以来歌道に志し、歌人として名を成したという山吹の里はこのあたりとの伝説もあります。

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