「 外はカリっと、中はふわふわ 」「 イチキュッパ !」「 草木も眠る丑三つ時… 」
ものは言いようといいますが、なんの表現のことであってもすこしの工夫や頑張りでずいぶんと感じ方に影響を与えられるものです。
ところで、造作という言葉をお知りでしょうか。「造作」とは、謀りごとの気持ちから何かを為すことです。深みのある言葉であります。造作にあたらない我々の行いが本当にあるのかと考えさせられます。
工夫や努力といえば聞こえは良いのですが、言い方をかえればそれは造作にあたるので、それならば、我々の行い事はすべて不浄なものになるのでしょうか。
さて、お盆休みに夢中になる甲子園大会。高校生たちは全力の努力をもって工夫して高めてきた技術を披露して、勝って泣いて負けても泣いて、観客席のみんなも泣いて、テレビの前の自分も泣いて、子どもたちの一心に取り組む姿にはあれこれ考える前に自然に気持ちを打たれてしまいます。どうあれ真剣勝負の世界で必死に魂を打ち込んだことに、私はそれは造作であるという野暮なことはやはり言えない。日々無感動に生きていると、自分の見解とか身勝手な良識の繭の中に自分から入りこんだり、また言葉で対象を支配するという本来の言葉の力が逆に転じて、言葉に自分が支配されてそしてやっぱり無感動という繭の中にまたとじ込もってしまい、世間の中に住んでいて世間離れしてしまう、日本の中に住んでいて外国人みたいになってしまっていることも或いはあるのではないかと思います。
本当に知ることを、仏教では『 知見 』といいますが、見事に自分の知見を開かれた時に、その相手に心から「 ありがとう 」という気持ちも沸いてくるような気もします。毎年、夏の甲子園では我々に新鮮な感動を与えて、自分を身勝手といい自己本位という繭から、高校球児からすれば計らずもですが、助け出してくれるのですから、お盆の時期はやはり有難いもの。
我々はだれでも最初からほとけ様ではないので、仏の気持ちをもって何かを為そうとすろことは難しいのでしょうが、あまり造作を忌むという気持ちにとらわれなくてもいいのでしょう。
本来清らかならざる事をもって、清らかならざる事を清らかにするのことが仏教の醍醐味でもあるのですから。