【縁起・由緒】

開催日:2026年08月31日

◇創設と八戸根城での発展
当山の開創は、身延山開基である波木井南部実長公の一族、八戸根城南部氏に由来する。
根城南部氏は、四代・南部師行公が国司代として八戸に根城を築いたことを端緒とし、南北朝時代には南朝方の拠点として一帯を治めた。
応永元年(1394年)、八代・南部政光公は実長公からの法華信仰を守り、甲斐の身延より日崇上人を招き、根城内に「遠光山 身照寺」を建立した。日崇上人が3年後に遷化(死去)したため、政光公は身延山九世成就院の日学上人を招き、応永3年(1396年)9月25日(実長公の命日)に開堂式を挙行した。この際、寺号を「円公山 身延寺」と改称している。以後、身延山最古の別院として根城南部家の帰依を受け、発展を遂げた。

◇焼失と廃寺、遠野への転封
天正19年(1591年)、火災により堂宇および多くの歴史資料を焼失し、当山は廃寺となった。その後、江戸時代の寛永年間に根城南部氏が現在の岩手県遠野へ転封となり(以後の遠野南部家)、寺院の再建はなされないまま時代が経過した。

◇花巻での布教と法華堂の建立
大正から昭和にかけて、遠野南部家三十六代当主(男爵)であった南部日実上人が、初代実長公との法縁により出家し、身延山鏡円坊の住職となった。日実上人は廃寺となっていた当山の再興を志し、遠野から八戸への途上に位置する花巻にて伝道を開始した。
当時、花巻において細々と法華信仰を続けていた信徒らが日実上人を招いて法要を行うようになり、次第に信仰の輪が広がった。
昭和3年(1928年)、法華堂建立の機運が高まり、発起人として宮沢恒治(宮沢賢治の叔父)が推薦された。この時、恒治の求めに応じた宮沢賢治が一晩で『法華堂建立勧進文』を創案し、設立を支援した。同年、恒治および有志・信徒らによって敷地と堂宇が日実上人に寄進され、「日蓮宗花巻教会」が設立された。

◇身照寺の再興
昭和21年(1946年)、日実上人は花巻教会を寺院に昇格させた。これにより、八戸根城で建立され天正の火災以来廃寺となっていた「身照寺(身延寺)」の由緒を継承し、名称を「遠光山 身照寺」として再興を果たした。これが現在の当山である。

◇寺宝について
本堂には、身延山清水坊(内野日運上人)に奉納されていた日蓮聖人像が安置されている。この尊像は日興上人発願の霊像と伝えられており、日本近代医学の祖とされるエルヴィン・フォン・ベルツ博士が発見し、日運上人に託されたものである。

◇宮沢家との縁と墓所
宮沢家は代々熱心な浄土真宗の信仰を持っていたが、宮沢賢治の父・政次郎の独自の仏教研究への没頭などを経て、昭和26年(1951年)6月、政次郎の申し出(弟・清六を通じての連絡)により当山へ改宗した。
同年7月に宮沢家の墓所が当山に改葬され、賢治の墓には角塔婆が建てられた。その後、昭和30年(1955年)の賢治の二十三回忌に合わせて五輪塔の墓が建立された。現在、境内には宮沢家先祖代々の墓と宮沢賢治の墓が並んで建立されており、国内外・全国各地から参拝がある。

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