加藤清正の母は娘時代から日蓮宗の熱心な信者であったことから、清正公はその感化であって生れる前からの日蓮宗の影響を受けていたといえる。 母は二人だけの貧しい生活の中に、母に信仰する姿を見て、信仰というものを成長と共に強く持ち始めた。 豊臣秀吉に仕えて、戦場にて生死の間にあるとき、常に頭には南無妙法蓮華経の題目をいただき、先ず口にでるのは法華経の題目であった。 清正公は純情一徹で、戦場では何者もおそれず、手柄をたてれば法華経の力と信じ、ますます信仰を深めた。 清正公は二十五才の時に難波に本妙寺を建立し父の菩提をとむらった。後に肥後の領主となって熊本城下に移した。 更に本妙寺を初め妙法蓮華経の五文字を冠した五つの寺を建立した。則ち越後水俣の法華寺、豊後鶴崎の法心寺、長崎の本蓮寺、肥前大村の本経寺がそれである。 このようにして法華経の信仰者として祀られ、日蓮宗信者はもとより広く一般にもあがめられているのも信仰により植えつけられた清正公の崇高なる人格による所以であろう。
6月23日、國昌寺でも、加藤清正公様信仰の祈願祭を行いました。