記憶をつなぐ  ~普賢岳噴火災害殉難者23回忌~

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平成3年6月3日、当時聞きなれない大規模な「火砕流」が発生し、43名の尊い命が奪われた普賢岳噴火災害から22年。
今年、23回忌を迎え、島原市仏教会主催の慰霊祭に出仕しました。

当山は市内ではありませんが、檀家さんの中にこの火砕流によって犠牲になられたご夫婦がいらっしゃり、年忌ごとに仏教会の方々とご一緒にお勤めさせていただいております。
午前中、その夫婦の法事を行ったのですが、お二人ともまだ行方不明のまま。そのため、仏壇にはお二人が作業していたであろう「タバコ畑」の石をお祀りされています。

お昼ごろに、ちょうど県日蓮宗青年会のメンバーと一緒にお勤め、ご回向。報道関係者が撮影ポイントとしていた通称「定点」と呼ばれるその場所で、多くの方が犠牲になられました。

メンバーの中には、初めてこの場所を訪れたもの、噴火災害事態を知らないもの、同じ県内で起こった災害といえど、当事者でなければなかなか記憶に残らないことがあります。後世に伝えることが大切だと実感しました。

その場所からは、平成新山の頂上、そして、高くそびえ今にも崩れそうな溶岩の塊が真正面に見えます。
「あっという間の出来事だったんだろうなぁ」 

午後からの法要では、遺族、報道、消防関係者など多くの方が参列されていました。発生時間にサイレンと共に黙祷。それぞれの合掌、祈りの中に様々な想いがあると思います。
そのなかに、消防団員の父を亡くした当時2歳の方が、子供を連れて参加されていました。父親としての想い、家族や子供に対する想い、その立場になって気付かされる思いがあると話されたいたのが印象的でした。

当時、私は高校生。高総体のまっただ中で、学校も午前中で終了し、たまたま帰宅していました。
午後4時8分、ゴロゴロと地鳴りがしたかと思うと、空一面を真っ黒い雲が多い、
辺りは真っ暗になり、焦げ臭いにおいが充満したことを覚えています。
火砕流なんて、当時誰も知らなかったし、夜になると家からは真っ赤に流れる溶岩が見えていまし。
珍しいこともあって火砕流が起きるたび、見物のため足を止め、車を止め、
マスコミも取材合戦が盛んでした。
そんな時発生した大火砕流。テレビをつけると、怪我をした人が次々と運ばれる光景が目に入り、市内の寺院は遺体安置所となった所もありました。
その後、道路も鉄道も遮断され、高校へは船で通学し、噴石に備え、毎日ヘルメット持参の登校をしていました。

あれから22年。地形は変わり、山は緑が増えてきたように思えます。しかしながら、元に戻ることはもっと時間のかかることです。
時間と共に忘れつつある記憶。何も知らない後世に伝えることが私たちの使命であり、亡くなられた方への供養になると思います。

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