昨日、花まつり鬼子母大善神春季大祭に併せ、当山開創450年の慶讃法要を厳修致しました。慶讃奉告文は以下の通り。
一会の清信の大衆、一心に所観の大曼荼羅御本尊に帰敬し、妙経を読誦し妙玄題を唱念し、以て釋尊降誕会、鬼子母大善神春季大祭に擬し奉る。併せて、普平山妙興寺開創四百五拾年慶讃の儀典を修し、歴代先師上人報恩、当山隆昌祈願の誠言を表し奉る。
伏して推るに、当山開山瑞昌阿闍梨瑞應院日逞聖人は泉州堺豪商油屋の産にして、佛心院僧正日珖聖人とは叔父甥の英僧なり。 日逞聖人、妙法弘通の志富に厚く、単身布教専心の歩を油屋の堺船に託し海路当地に入郷せり。時あたかも戦国の世毛利尼子両氏が領地争奪の覇権を競い、未だ荒涼たる寒村を望む松林に、永禄七年弥生三月二十八日当地に一宇を建立さる。称して普平山菩提樹院妙興寺、当山開闢の始めなり。
顧みて案ずるに、宗門中興の英傑、堺妙國寺開山の仏心院日珖聖人は、若年にして三井寺比叡山に修学し万人に秀でた学識を蓄え伝教大師所伝の紫袈裟を賜り、卜部神道の秘伝を修得し、本山頂妙寺に晋山するや畿内阿波讃岐一円を領し室町幕府の重鎮、三好氏を一族挙げて受法の秘儀を修して入信させ、十五町歩の寄進により堺に妙國寺を開山、一大教線を築きたり。宗門歴代の学僧を輩出せる三光無始会、泉南学派の総帥たり。天正七年、織田信長公の安土城下にて宗論あり、法華の講頭として至るも敗の宣を受けたり。堺に遁棲し機を期するに、本能寺変出来し、妙國寺当留の徳川家康公を大和路を経て帰郷させたるは、この油屋日珖聖人の深謀なり。後に高祖大士祈祷伝承の中山法華経寺に晋董し、三山輪番を定め慶長三年八月安詳として入寂せさる。日珖聖人が燦然たる遺歴は、当に当山日逞聖人以来歴代先聖に密なるものなり。
一に日珖聖人天正元年に受法せる、阿波三好氏の将横田内膳正村詮公、関ヶ原戦後中村藩十七万五千石の執政家老で入府し、当山に壱百石の寺領と共に横田氏伝来の木盃を寄進し開基檀越たりしこと。二に安土宗論に、油屋伊達家一門の危機なりと日逞聖人遠路近江まで駆けつけ、顛末を記せし信長公記に油屋弟坊主と描かるること。三に、妙國寺大蘇鉄樹に由来の宇賀徳正竜神を、当山山内に明治初年の廃仏毀釈に至るまで堂宇を以て歓請せしこと。四に当山中興第七世本是院日法上人、御宝前の三宝諸尊、洛陽五条油屋寄進の釈尊大涅槃図、内膳公碑建立等々寺観一新の面目を施すに、宗門寺院にも例を見ない鬼子母善神、鬼神王般闍迦、十羅刹女の尊像を歓請せし事。五に第八世霊應院日富上人、第十六世唯常院日進上人の勲功、第二十二世大法院日研上人宛京都鷹ヶ峰檀林学頭書状のみならず当山歴代先師に学識広遠の師数多ありきこと。六に、第二十三世龍本院日妙上人は中村伯耆守忠一公菩提所感応寺に宰たり、二十五世遠妙院日啓上人は日蓮宗大荒行五行全堂代表を勤めし当地に於ける宗門祈祷の大先達たりしこと。
斯くの如く枚挙の暇無きほど開創四百五十年の内には本山妙國寺と緊密なる連携在り。昭和戦時危急の折本末解体の国策有って、糸の切れし凧の如く山陰の辺境に埋もれたり。平成の当世師父日與上人と共に寺歴再考の日を過ぎしに、遂に大慈大悲の仏縁を開創開山の昔に復し得たり。本日茲に当山有縁の大衆と開創四百五十年の慶びをともにし、慶讃報恩の典を挙ぐ。
仰ぎ願わくは、仏祖三宝諸天善神等、利験擁護を垂れ、後五百歳中広宣流布、四表静謐、立正安国、宗門榮昌と、守護現成せしめ玉へ。別しては当山興隆、山門鎮静、一切無障礎、感応冥助と、加持示現し玉はん事を。本極法身の妙体、常住一体三法の妙旨、一妙三秘、南無妙法蓮華経
維時 平成二十六年四月八日
普平山菩提樹院妙興寺 第二十七世 伝燈 沙門 順妙院英孝日遠 稽首和南