本日、地球の反対側にあるブラジルの方が、日蓮大聖人が旭ヶ森でお題目をお唱えになっておられるお姿を、サイトに載せておられました。
私たちは立教開宗750年を目の当たりにしたものの、もはやその事を忘却の彼方に追いやってはいませんか。
確かに全国各地で、立教開宗会の法要が営まれてはいます。しかしその当時のお祖師様の御心中を、常に勘案しているでしょうか。
彼の地では異国に移民として移住して、そのまま何世代も苦難を乗り越えていらした方々の、お題目を切望する想いが、現代も純粋に息づいています。顧みて我が国においても同じ歳月を、何世代をかけて信仰を相続してこられた方々がいらっしゃいます。
であるにも関わらず、我々の危機感の欠如は何でしょうか。これを広め人々を救済しようとされたお題目。この10数年のうちに、お題目に向き合う姿勢が何か違う気がします。
表題の一句は「刑部左衛門尉女房御返事」の一節です。子を想う親の気持ちに気づかない悲しさを説かれておりますが、現代に至っては他人はおろか親子や夫婦、家族に至るまで、余りに自己中心的な考えを持つ人たちが多すぎるようです。お祖師様を「親」と例えさせて頂くとすると、その「子ら」は、果たしてどうでしょうか。また我々を「親」とすると、その「子」はいかがでしょうか。
写真の芽吹きつつある樹は「カシワ」であります。そう、あの柏餅の「カシワ」です。カシワの木は厳寒の冬でも枯葉を落とさず、翌春若葉がが開いて初めて古い葉が落ちるのです。当地では昨日ようやく落葉しました。それまでは春とはいえ指で引っ張っても取れることはありませんでした。
確かな成長を見届けるまで威厳を崩さない、親としてそうありたいものです。