寺離れとはいうけれど。

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大手酒造メーカーの創業者を採り上げたドラマが人気だそうだ。
先日の劇中で、戦後粗悪な洋酒造りを強要された主人公が、巷にあふれる酒もどきを口にしてひとこと。
「これはただ酔えばよいという酒じゃ。こんなものが広まったら誰も本当の酒がわからなくなる。」

一方、ある企業の行った調査によると、現代の若者の「○○離れ」というのは、若者のデータだけを見せて、若者離れと形容するケースがかなり多い。のだそうだ。現状を考えてみれば、バブル絶頂期と比較してみたり、数字だけとらえて若者という世代人口の減少を勘案していなかったり、することも意外と多く見受けられるそうである。
「寺離れ、墓離れ」なる言葉も宗門内外を問わず、最近よく耳にする。研修会でも侃侃諤諤(かんかんがくがく)なのか喧喧囂囂(けんけんごうごう)なのかは措くとしても、最終的な結論は未だ藪の中である。家庭や社会の共同体における宗教観の欠如、少子高齢化、都会への人口流出、過疎化等、諸問題が複雑に絡み合って一元的な見方では、解決の糸口さえ見つけるのは容易ではない。

だがしかし、である。

日蓮大聖人は「詮する処は天も捨て給へ、諸難にも値へ、身命を期とせん。・・善につけ悪につけ法華経を捨つるは、地獄の業なるべし。・・」ぎりぎりのところは、天が捨てても、どのような法難に出あっても、命のあるかぎりは法華経を世に広めることを捨てはしない。であるから「善につけ悪につけ」つまり世の中がよくなっても悪くなっても、人の自分に対する態度が親切であろうとなかろうと、そのような世間の事情や境遇の変化などに心をとらわれてはいけない。人が歓迎するから法華経をたもち、歓迎しないからこれを捨てるというような態度であってはならないのである。このように釈尊の本意を法華経に見いだし、釈尊に絶対帰依の覚悟をした者が法華経を捨てるのは宗教的に完全な堕落であるとういうのである。これが地獄に落ちるという言葉で表現されているのである。  久保田正文先生著 「日蓮その生涯と思想」より抜粋

眼の前の現実に右往左往して、事の本質を見失っていないか。捨てかけてはいないか。
今この時こそ、決して変わることのない真実の教えである法華経の肝心、お題目を唱え伝えるべき時である。

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