まず臨終のことを習うて

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 海外での話なのですが、看護師という職業は他のどんな職業よりも命の終演を看取る機会が多い仕事です。私たち僧侶も一般人の誰よりも人の亡骸に会う機会は多いものの、命が終わる死の瞬間には立ち会うことはまず有りません。
  パソコンのメディアでこんな記事を目にし、気になったので紹介します。
 
 看護師が聞いた
  『死ぬ直前に聞いた後悔の言葉』
 これは、オーストラリアのある女性看護師さんが紹介してくださっていることです。彼女が働くのは、人生の最後を過ごす患者さんたちが多数入院している緩和ケア病棟。彼女によりますと人は死に際に、しっかりとその人の人生を振り返るのだそうです。よく、死んではいないけれども、九死に一生を得た人もまた記憶の中に宿っている様々なシーンを回想すると言うことも耳にします。
  そんな中、正に人生が終わろうとする瞬間に力を振り絞って語られる多くが後悔の言葉なのだそうす。そしてその言葉には共通性があり、幾つかの後悔に分類できると書かれていました。その後悔とはこんなものだそうです。
【自分自身に忠実に生きれば良かった】
自分自身の考えを立てて人生を歩んでいる人がどれだけいるでしょうか。この言葉には、他人に影響されて自分を押し殺し我慢の人生を送った人の後悔を感じ取れます。「他人に望まれるように」ではなく、「自分らしく生きれば良かった」という後悔。彼女によるとこの後悔が最も多い後悔の言葉なのだそうです。自分の夢がたくさん有ったにもかかわらず、それらすべて夢で終わってしまった空しさに気づき、ああすれば良かった、こうしておけば良かったと無念の気持ちを抱いたまま息を引き取るのだそうです。
【あんなに一生懸命に働かずとも良かった】
この言葉は、男性の多くが口にするそうです。仕事に時間を費やし、家族のために仕事一途にやってきた人も、実は仕事についつい時間をとられて家族との楽しい思い出も脳裏に浮かばない空しさにもっと家族と楽しく過ごせば良かったと思うのだそうです。
【もっと自分の気持ちを表す勇気を持てば良かった】
世渡り上手をするために自分を出さず、可もなく不可もない存在で有ったことに嫌気と無念の気持ちが湧き出て最後を迎えるのだそうです。
【友人関係を続けていれば良かった】
けんか別れした曽ての友人や、無精にも連絡が途絶えてしまった人に対して、特段に影響も無いと思っていたにもかかわらず、この時になって、その人のありがたさに気がついたり、思いを馳せたりするのだそうです。
【自分をもっと幸せにしてあげれば良かった】
幸福は自分で選び、勝ち取るということに気づかず、他人と同じようにしていることで無難に人生を過ごす。変化を恐れ自分で出来た選択肢をも見過ごした人生に気づき世を去る人が多いようです。
 正に「後悔先に立たず」です。
 表題の『まず臨終のことを習うて後に他事を習うべし』の言葉は、日蓮聖人が我々に残された言葉です。人の命は必ず終わるものです。体が元気なときには、病気の苦しみは想像できません。逆に人間は、健康な時をしっかり覚えていて、病に伏せっているときには、健康体に帰ることをひたすらに望みます。
  同じように生きている間には、自分が死ぬなんてことを想像すら出来ない人の多いことは皆さんも承知の通りだと思います。けれども必ずや終焉は訪れるのです。
 この日蓮聖人の言葉は、我々に対して死ぬと言うことを自覚しなさい、そしたら人生に悔い無きように生きることを目的に学んでいくことが大事だということが解るでしょう?と仰っています。またこういう解釈も出来ます。看護師が聞いた死に際の後悔の言葉の数々にも有るように、死期に直面した時に人は後悔の言葉を口にする。ですから私たちは、後悔しない人生を送るために様々な「他事」を習うのです。
 死ぬという事を確かに知り、人生をどう生きれば後悔しないのでしょうか。看護師さんが伝えてくれた例を知り尽くし、そうならないように生きる事?それだけなのでしょうか。
 お釈迦様は、生きる事の意味を説かれたのです。命とは何か。我々は何を信条に生きるべきか。それを説いたのが仏教です。言うなれば生きる目的を示されたのが仏様の教えなのです。あなたが生きる目的では無く、人々の生きる目的。つまり全ての生きとし生ける物の命の目的を説いたのが仏教です。この混迷の時代、心を満腹にしてみようでは有りませんか。仏教を学び法華経を身に読んで。

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