人生の光明②

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元来信仰というものは、神や仏の心を自分の心として、少しでも神や仏に近づこうと、すなわち、神や仏を理想目標にした自己人格の修養の努力でなければならない筈です。それに自分の尊い本性を忘れて、ただ神や仏にすがりついたり甚だしいのに至っては欲一点張りの信仰がますます殖えて、それが大繁盛しているのはどうしたことでしょうか。文化の時代の中に生きていながら洵に恥ずべきではありませんか。
 お釈迦様は雑譬喩経に
「譬えば稲を作るのに米を求めるだけの目的ではあるが、藁は自然に得られる。それと同様に仏になろうと決心して修養していくならば、その修行がまだ出来上がらなくても人間としての幸福は得られる。だから、欲だけの果報の楽を求めるような信仰をしていてはならない。(取意)」 
と、仰っています。その他このような戒めは様々な経文にも説かれてあって仏になろうという目的をそっちのけにして金持ちになりたいだの楽がしたいだの地位が欲しいだの達者になりたいだのと自分の勝手な都合の良い欲の信仰は外道であり最も賤しいものとして排斥されてあります。
 自分の尊い心の本性を忘れて「修行は自力の信心だ」などと嫌がっていてそれで仏になろうと思っているのは、稲を作る骨折りをせずに米が出来るものと信じているのと同じ事であります。また、金持ちになりたいなどと欲張りを願って、仏になろうという肝心の目的無しの信仰は、ちょうど米を作っても「米は要らない藁だけが欲しい」といって、まだ実らぬうちに青刈りしてしまうようなものでどちらも浅ましい信仰と言わねばなりません。そんな信仰はいくらしても決してその人も家も社会も明るく正しく良くなるものではありません。真に意義有る人生、生き甲斐のある生涯、幸福な生活をしたいと思う人は是非とも正しい信仰、正しい教えに寄らなければなりません。

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