「おはよう」「行ってらっしゃい」毎朝の挨拶に帰ってくる声はわずか。
私の住んでいる町内は安全委員会と言う組織を作って小学校の登下校を見守っています。
挨拶をする子供が減っています、大きな声で挨拶をする子が減っています。委員長さんや町総代さんも注意したり褒めたり、しかったり「大きな声で挨拶しようや、元気を出して行こう」毎日のように声を掛けるがそれでもあまり元気とはいえないような声での挨拶が返ってくるだけ。
挨拶は人と人の最初の交わりであり、相手を尊重する行動の一つで最低のマナーだと思うのです。
また最近は電車の中で化粧をしたり、携帯電話を大きな声でしゃべったり。マナーの悪さに不快感を覚える人も多いといいます。社会学者や心理学者は化粧している本人、携帯電話でしゃべっている本人は周りが見えていない、見えていても尊重すべき人としてみていない。周りの人も相手がこちらを尊重していない行動に不快感を感じると言うことだそうです。
人間が人間を尊重するという基本的な事を忘れている今の社会に恐ろしさを感じてしまいます。
法華経の中の「常不軽菩薩品第二十」と言うお経があります。
町行く人に「私はあなたを敬います、あなたは仏様に成られる人だからです。」ただひたすら多くの人に合掌し頭を下げ、この言葉を繰り返す。怒られても嫌がられても、石を投げられれば遠くからでも頭を下げ合掌をして相手を拝む。
すべての人が持っている仏様に成る事が出来る仏種という可能性をあがめ常不軽菩薩という「どんな時も相手を軽んじめない」菩薩様に成られ長く法華経を広められた事が説かれています。
今の時代自分さえ良ければと言う考えがまかり通っているような気がします。レストランでも商店でも、役所の中でも大きな声で文句を言って自分の意見を主張する。その内容が他人から見れば首をかしげたくなるような主張でも本人はお構いなしで怒鳴り立てる。その場で通らなければ本社等の上の組織にまで連絡を取る事も多いらしいのです。自分が客だから、相手が文句を言い返さないと分かっているからか、無理難題も聞いてもらうと言う気持ちなのでしょう。相手を尊重すれば言い方も変わるし、態度も自ずと変わってくるはずなのに。
日蓮聖人がお書きに成られたお手紙を拝読すると相手の気持ちを思い、男女身分の差無く温かいお言葉で法華経の信心を勧められています。
法華経、釈尊を信じ日蓮聖人を宗祖と仰ぐ私達は日常の生活の中で相手を敬うことによって法華経の「色読」すなわち法華経の実践を家庭やご近所で行いましょう。