合掌 12月6日14時からの第18回お経会は、薬草喩品第五についてです。
「やくそうゆほん だいご」と読みます。
ここでは、お経会でお話しする内容を書いておきます。
私たち日蓮宗では、法華経というお経を読み、信じます。
薬草喩品第五は、法華経の第五章になります。
なぜ薬草なのかはちょっとよくわからないのですが、
本章では「三草二木の喩」という仏様の例え話が中心となります。
この章の話し手:お釈迦様
この章の聞き手:摩訶迦葉
摩訶迦葉については前回説明しましたので、こちらを読んでください。
必要なもの以外を持たない清貧の行者で、
お釈迦様亡き後、「お経」を作り、教団の後継者になった人物だと思っていただければ。
○前章の復習
前章は信解品第四でした。
詳しくはこちら。上と同じページに飛びます。
仏教教団の高弟4人が、お釈迦様の説明に対し、
自分たちが理解したことを証明するために例え話を用いたのでした。
聞いたことに対し、表現を変えて説明できてこそ、
本当にわかったことになるのだという考えなのでしょうね。
この弟子たちの話を、長者窮子の喩と呼びます。
お釈迦様は私たち全員にもっとも素晴らしい教えを与えたいと常々思っています。
それは、私たち生きとし生けるすべてのもの(衆生)はみな、仏様の子どもだから。
ところが残念なことに、私たちの方に準備ができていません。
価値の高い財産よりも、日銭を欲しがるような有様です。
そのため、教えを小出しにして徐々に育成し、
機が熟したと思われるそのときに最高の教えを与える――。
このような話でした。
弟子たちの話を聞いて仏様は、
摩訶迦葉をはじめとした高弟たちを褒めるとともに、
補足の説明をします。
それが、三草二木の喩です。
○「薬草喩品第五」の内容~三草二木の喩~
雨が降るときを考えてみましょう。
雨を受けた植物たちは、みな水を吸収します。
大木と植木鉢に生えている小さな花では、
吸収できる雨の量に当然違いがあります。
この違いは、雨に原因があるのでしょうか?
雨雲が自主的に判断して、
「この草は小さいからちょっとだけでいいでしょ」
と少ない水しかあげないのでしょうか?
もちろん違います。
乾性寺には樹齢360年になる大きな梅の木がありますが、
例えそのような大きい木であったとしても、
昨日生えてきたばかりの小さな草であったとしても、
雨は平等に降り注ぎます。
しかし、その植物の大きさによって得られる水の量はかなり違いますね。
ここで言う雨は仏様の教え、そして植物は私たち衆生です。
※衆生:「しゅじょう」 生きとし生けるすべてのもの
仏様は私たち一切の衆生に対して、平等に教えと愛情を注いでいます。
しかしながら、私たち自身の器によって、受け取れる量に違いがあります。
自分自身が、教えを受けられる状態にあるのかどうか、それが重要なのです。
受けられる状態であれば問題なし、
受けられない状態であれば、少しずつ積み上げていく必要があります。
徐々にであっても成長していく植物のように、
我々も精進が必要なのでしょう。
ちなみに乾性寺の梅は、
夏場になると夕方から夜にかけて毎日1~2時間くらい水をかけないと維持できません。
大変です。誰か助けてください。ボランティア募集します。
○「薬草喩品第五」の内容~もうちょっと詳しく~
・人々、または神々の王は、小さい薬草
・人の交わりを断って修行し、聖者となるものが中の薬草
・仏に弟子入りして修行するものが大きい薬草
・仏道のことだけを思い、慈悲深く生き、自分は仏になれると確信しているのが小さい木
・神通力を身につけ、決して退かず、多くの人々に教えを説くのが大きい木
これら五種類が、同じ話を聞いても、受け取り方が違うことは明らかでしょう。
自ずと注目する点も異なってくるはずです。
この分類の中で、
中の薬草とされているのが縁覚(辟支仏=ひゃくしぶつ、独覚=どっかく、とも)、
大の薬草とされているのが声聞と呼ばれています。
この二種類は、二乗と呼ばれ、
基本的に自分の修行を優先しているため、
他者への還元をしない人々だと批判されてきました。
対して二木に位置づけられる下の2つは、菩薩と呼ばれ、他者の救済を一番に考えます。
法華経では、声聞と縁覚、そして菩薩は合わせて三乗と呼ばれています。
三乗には確かに性格や修行の違いはあるのですが、
彼らは皆真剣に仏になることを目指しているのだから、
全員が成仏を目指す一つの道(一仏乗)を歩いているのだと考えます。
だから、声聞や縁覚が仏になれないということはありません。
教室や習い事で考えてみるとわかりやすいかもしれません。
声聞は、先生のそばで一生懸命勉強する人。
縁覚は、自分で勉強するのが好きな人。
菩薩は、教えてもらうことも教えてあげることも好きな人。
誰でも優秀な成績をとれるでしょうし、次の先生になることもできるでしょう。
もっとも、他者の救済である「菩薩道」をとても重視していることから、
菩薩道が成仏に至るまでの大切な手掛かりであることは間違いありません。
上の例で言うならば、人に教えることもまた、
先生になるために欠かせない条件だということですね。