日言聖人はその御生涯で、二度も頂妙寺の堂宇を再建されています。
日祝聖人より法脈を受け、頂妙寺貫首に成られてから十年後、大永三年(一五二三)。足利将軍義晴公の教命により、高倉通木椹町(現在の御所南西隅)に、頂妙寺を移転再築されました。
天文五年(一五三六)比叡山の衆徒や周囲の豪族に襲撃に遭う、天文法難により堂宇は灰燼に帰し、日言聖人は堺にのがれられました。日言聖人は堺の地で布教に努められるとともに、京都に帰ることに尽力されます。
天文十一年(一五四二)。帰洛の許可を得て、二度目の堂宇の復興再築に身を委ねられます。
弘治元年(一五五五)。堺での布教において縁を得た、豪商出身の法姪日珖聖人に法脈を託し、弘治二年(一五五六)八月二十六日遷化されます。
写真の日言聖人尊像は、祖師堂に安置されています。