頂妙寺開山日祝上人が中山法華経寺出身であっため、日珖上人は法華経寺の動向に注意をはらわれていました。あたかも時の法華経寺貫主十一世日典上人に霊宝、什物散乱の聞えがあっため、文禄二年(一五九三)これを徳川家康公に訴えられました。家康公は日典上人を長門国(山口県)萩に謫し、京都頂妙寺・本法寺・堺妙国寺の上方三本山をもって輪番住持せしめ、初代輪番住持として日珖上人に入山を命じました。いわゆる中山輪司の式がこれであります。
日珖上人は慶長三年(一五九八)八月二十七日、六十七歳をもって入寂されました。戦国時代より江戸時代初期の、転変する日蓮宗を宗制、教学にわたって指導し活躍した中心人物であったのです。
画像は頂妙寺祖師堂に祀られている、中山法華経寺、開祖常修院日常聖人の尊像です。