植木雅俊先生と読む『日蓮の手紙』Ⅱ

 令和5年9月30日午後2時より、植木雅俊先生を講師にお招きして、仏教講座「『日蓮の手紙』を読む Ⅱ」が開催された。参加者は33名。今回は日蓮宗教師17名、法華宗教師2名、寺庭婦人5名の参加を得ることが出来た。遠く能登・富山・福井・岐阜からも9名の教師が参加され、先生の高い人気がうかがえる。
 なかでも、昨年に続き、耳が不自由にもかかわらず兵庫県三田市から駆けつけてくれたIさんには、頭が下がる。
 講義は「問注得意抄」「四条金吾殿御返事」「日妙聖人御書」の3通の手紙を中心に行われた。まず私が質問させていただいた。大聖人は一切経や『貞観政要』を含む中国の古典などを引用してお手紙と書かれているが、筆遣いから一気呵成に書き上げておられ、参考文献を見るために手を止めておられない。すべて暗記されていたのかどうか?先生のお話しでは、参考文献を手元に置かれていた場合もあるが、重要なものはすべて暗記されていたとのこと。その暗記力には驚かされるが、突然に質問にも、流れるように解説する植木先生の記憶力にも舌をまいてしまった。
 一番感動したのが「日妙聖人御書」。大聖人が日妙聖人と名付けられた女性が、鎌倉から佐渡へ来訪したのは文永9年5月、龍口の法難から8カ月後のことであった。鎌倉では、多くの弟子檀那たちは牢に入れられたり、所領を没収されたり、追放されるという目に遭っていた。そうした状況下にあっても、この女性は信心を貫き、幼い娘(乙御前)を伴って佐渡まで日蓮を訪ねて来た。
 「相州鎌倉より北国佐渡の間、其の中間一千余里」という道の遠さもさることながら、世相もすさんでいた。山賊や海賊が横行しているだけでなく、2月には北条時輔の乱という京都と鎌倉で同時多発的に企てられた謀叛を鎮圧する内乱があったばかりで、「今五月のすゑ、いまだ世間安穏ならず」といった有様であった。その中で、危険を冒して母娘二人の佐渡来訪であった。しかも、帰りの旅費がおぼつかないことを知って、大聖人は『法華経』一部10巻を渡すことを条件として、一谷入道に旅費を借金し、それを持たせて帰したほどであった。
 大聖人は、釈尊の六波羅蜜の修行や、玄奘三蔵と伝教大師の求法の旅と比較して、この女性の求法の志は劣るものではないと称讃する。しかも、それらの求法者たちがすべて男性であることにも比して、この女性の志を称えて、「日本第一の法華経の行者の女人」と称し、常不軽菩薩の義にならって「日妙聖人」という名前を与えたというのである。法を求めてはるばる兵庫県からやって来られるIさんと、日妙聖人がだぶって見えた。
 夕食は昨年に続き、おでん屋さんの「長平」へ。岐阜から来られたI上人も同席し、講義の続きのような2時間であった。
 来年は9月28日(土)の開催。『「日蓮の手紙」を読む Ⅲ』です。多数の方のご参加をお待ちしております。 合掌

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