植木先生の講義で「変成男子」の謎が解けた!!!

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  3月30日午後2時より植木雅俊先生を講師にお招きし、「現代語訳で読む『法華経』」第4講が開催された。法務の都合などで欠席される方が多く、今回の参加は前回と同じ26名。新たに釜石市で医療に奮闘されているお医者さんが加わり、また前回に引き続き遠く神奈川県平塚市からのご参加もあり、植木先生の人気の高さに改めて驚かされるとともに、遠い距離をものともせずに参加される熱意には頭が下がる思いである。
 今回は法師品第10から勧持品第13までを、予定時間を遙かに超えて、4時45分まで熱心に講義していただいた。お話の内容はすべて新鮮で、あっという間に時間が過ぎた。
 先生のお話はすべて重要なのだが、特に私が感銘を受けた点をいくつかあげてみる。
 法師品では従来の四衆に代わり善男子・善女人という用語が使われるようになるが、この言葉には在家・出家や男性・女性の差別がなく、行いが立派であるかが問われ、原始仏教の「生まれによってバラモンになるのではなく、行いによってバラモンになる」という人間観が反映されていること。また、「今、ここ、我が身」を離れて成仏はありえないこと。
 法華経は塔を建てることを強調するが、その塔とは仏舎利を治めたストゥーパではなく、経典を納めたチャイティアであり、仏舎利信仰を批判し、経典を重視を説いており、「法門を書写し、写本に作りなし、肩に担う人は如来を肩に担っている」のだということ。
 「人間世界で菩薩道に励むことが悟りである」との先生の言葉は、実践なき法華経信仰はあり得ないと、改めて確信させていただいた。
 そして、今回の講義で最大の問題が「変成男子」だ。以前、寺庭夫人を対象とした講座を担当させていただいた時に、この説明に窮した苦い経験がある。「男にならないと成仏できないのは、女性差別ではないのか」との質問に答えられなかったのだ。今まで読んだ法華経の解説書で納得のいく説明は一つもなかった。
 勧持品では摩訶波闍波提や耶輸陀羅など女性が授されているので、女性が成仏するのに男性となることは必要条件になっていない。ということは、どうしても女性の成仏を納得できない舎利弗らの土俵で説明し、納得させるためであった、と。長い間私の目を曇らせていた大きな鱗が落ちた。
 夕食は先生の大ファンのお上人を招いて3人で。3時間余り、御馳走を口に運ぶのも忘れるくらいの濃密な補講となった。
 次回は6月29日。あと2回で終わりそうもないので、講義の延長も考えなくちゃ。

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