ということなんです。
わかりやすく言葉にすれば。
そういうことを当山はやっています。
草や木や大地、そこに共に共存する生物たち。
180万年の人類の歴史からみれば、
ほんの産毛の先っちょほどの、
一瞬の流行りでしかない美観を押し、
不必要なとこまで、
田んぼや畑や道路の見通しなどならともかく、
単なる今の自分の快不快を主体にして。
ほうむることになんの負い目もなく。
どこかの国のように、選ばれた生存者のようにして人間を見、
他の生存(鉱物・植物・動物)者を、その都合でどうしてもかまわないと。
こういう考えは、動物だから、植物だから、鉱物だからしているの。
って言い訳は通らない。
必ず他人にも気づかないでそうしているはず。
佛教にある「衆生」、釈尊が救いの対象とした存在は、
人だけのことではない。鉱物・植物・動物も入っている。
理屈じゃない、駆け引き損得勘定でもない。
「そうしたいからそうする」と、
思いが涌いてこないなら、
かなり、心がズレてます。
すべて、他の存在をモノ扱い道具扱い(自分の思いを遂げる為に利用する存在)としか見れない、そういう人の心から、
なんで、こんなことが起こるんだろねが起こっている。
だから、「草木国土放生会」と叫ぶ。
やってる感ではない「いのちの尊厳」とは
こういうこと。
やってる感没入自己満足な「いのちに合掌」とは
これを知らないでやってること。
じゃないでしょか〜?。
