こどもの日(釈尊降誕正当)に際し

令和7年5月5日は立夏でもあり、
いよいよ、春から夏への土用も明けます。

そしてこどもの日、お釈迦様ご誕生の縁日でもあります。

アイキャッチフォトにもありますように、
本堂へ上がるところに「随草道場」
「草木大地に命あり、我々を生かしてくれる仏様」
と記して、佛道とはそういうもの、
ここのお寺の波羅蜜(ここのお寺へ参る上の心の環境)は、
このように整えましょう。
日常でもそうすることがまともな証ですが、
難しい社会なので、せめてここへ来て思い出しましょう。
という願いです。

佛道には「衆生」という言葉があります。
この衆生は、すべての人間はもちろんのこと、
それだけではなく、すべての動物も、
そして、すべての植物、さらには鉱物までも、
全てを含む言葉です。

つまり、「生きとし生ける一切の存在」
佛道は、それら全てに命があり、しかももっとも尊いたましいが
備わっていることを観てきました。

草木国土悉皆成仏 とか
山川草木悉皆仏性 という言葉はここから来ています。

そしてそれらは生まれ変わりしに変わり繰り返す。
殺生とは動物だけに焦点が当てられてますが、
植物も鉱物も殺生の対象として見ます。

人間はだめ、いや、動物もダメ。
という限定はまともではないということになります。
そういった、歪んだ「ワケヘダテ」は、
目を濁らせます。

子供は、大人の言葉以前に、
すでに、その周りの大人の立ち振る舞いに感染します。
また、赤子は自分に対する大人の触れ方、その手の感触の中に、尊厳性も受け取れば、賤しみ卑しさも受け取ります。
そして、大人に向かうのではないのが、大問題。

「自分とはそういう存在なのか・・・」
ということを、その大人の触れ方のなかで、
自覚するのです。

お釈迦さまはそういうことを、
そういう社会の歪みを正すため
という明確な目的をもってお生まれになりました。

これはもう、今となって、ここまで社会が疲弊し劣化してしまっては、かなり困難なことではなりますが、
それだからといって、そんな損得勘定でしか思考では不甲斐ないこと。
やるしかない、やりたいこととして、
ここに集中する、そんな仲間を探しています。

追申
これはまた再録しようとおもうことですが、
いまや社会でも通じなくなったこと、
これが日本人を愚かにしてしまった。
という大問題。
「それでは世間様は許されない」
逆に「世間が許すことならなんでも通し」
いいかえれば、「赤信号みんなで渡れば怖くない」
たけしさんという方はそこまで見抜く目をもって、
もう、40年以上まえにすでにこの言葉を放ったわけです。
おそれいります。

世間で皆がやっていること、
=それが正しいこと。
というのを倫理観だと思い込んでいるのは、
日本だけということ「裸の王様」です。

街で珈琲飲んでても、
「ほら、みんな見てるよ」
と、もっともらしい諭し方と、
恥ずかしくもなく親が子供に言い放っている。
これも日本人特有です。

たぶん、なぜそれがいけないの?
と、はてなマークいっぱいになっている方もあると思います。
私もそうでした。
でも良く考えてみれば、これがいかに愚かな思考か、
明らかになってきて、顔が赤らみます。

せめて、佛道くらいは「世間さまと同じように」を持ち込まなければ良いのですが、
なんと、仏事ほど持ち込まれてしまっている。
お粗末なものでございます。
無力感でいっぱいで、どうふるまると良くなるのだろうか?と試行錯誤の日々です。

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