沖縄へ行ってまいりました。


琉球山法華経寺の紹介が報道された
https://youtu.be/gv4vmuXVbaI?si=dhh9T2dP_st7GVQP



↑ ぜひご覧ください。

30年ぶりで、沖縄本島へ参りました。
改めて、お寺とは何か? 今後、お寺や神社が守られていくなら、
どんな意志の集合によるのか・・・。

そんな、瞑想(迷想)をしてまいりました(アイロニカルな笑)
そして確信を持ち帰りました。

今年は、八十年の節目。
700遠忌(日蓮聖人が亡くなられて700年目・昭和56年)に建立された、
琉球山法華経寺、私は昭和61年にはじめて訪れました。

私が荒行僧として、父が伝師として、2年にわたって参拝して以来のこと。
はずかしくなりました。

この度、私の大親友でもあるお上人が、山主となり、
沖縄戦最終激戦区であるシュガーローフの戦いを忘れないために、
要石として建てられたお寺
お寺とはそういう役目を担っている。

うちのお寺でもそうです。
人々記憶の風化により、大切なことを忘れてしまう。
忘れなければ災害にはならないのに。
苦悩は繰り返さないのに。
人というものは、忘れてしまう

ということ自体、
お寺も人々もわすれてしまった世の中。

みずからの損得勘定以外に考えることについて、考えたことがない人たち。

心あるものが、それを思い出すよう、守られている姿を失わないで、
損得勘定依存者たちから、守らねばなりません。

御嶽と書いて、沖縄では「うたき」と呼びます。
これは、山川草木の存在、それを古来日本では「神」と呼びました。
人はそこからの圧倒的贈与、恩恵によって暮らしている。
(そこから搾取してきた手間賃→その仲介費用→その販売賃はみんな取っているのに、おおもとの山川草木への反対贈与〈おかえし〉を忘れている)
そのことを、すっかり忘れ、感謝を忘れたとしか思えない振る舞いを
していることに、自覚がないのです。

そういった視座から、うちのお寺の風景を見ていただきたい。
そうすれば、我々の社会の寿命も少しは伸びていくことでしょう。


 

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