「空」についての関心は、それを論じる「仏教」そのもの以上の関心事のようです。
しかし、そこには放逸なとっちらかりあり、勝手解釈ありです。
では、「空」のボタンをどうかけていったら適うか、その目安としての第一ボタンにあたる論考を、引用としてここに載せたいと思います。あえて引用元は伏せます。ご関心の方は直接お問い合わせ頂けたらご紹介します。
大乗仏教では『般若経』の教説に代表される「空」の教え(空性説)が大いに称揚され、龍樹(ナーガリュジュナ。150〜250頃)を祖とする中観派は、唯識説を唱える瑜伽行派と並んで、インド大乗仏教における二大学派を形成していきました。中観派は空性説に基づく学派であり、アートマンの存在についても否定的です。いいえ、アートマンのみならず、瑜伽行派が主張する「識(ヴィジュニャーナ)の存在」をも否定します。そのような点から、中観派はインドのみならず、チベットにおいても大変重要視されました。特にチベットの法王であるダライ・ラマを輩出する、チベット仏教最大の宗派であるゲルク派が中観派の教えを最高のものとみなしたこともあり、研究者の中には「無」の視点からインド仏教全体を俯瞰しよう、あるいはもっと進んで、仏教全体を規定しようという方もいらっしゃいます。
もちろん、インドでは散逸した仏教聖典が、原点にかなり忠実な翻訳としてチベットに伝わっているという点、そしてインドでは滅んでしまった仏教後期の姿を「比較的」忠実に伝えている(と信じられている)点において、チベット語仏典やチベット仏教の重要性自体に異論を差し挟む余地はありません。インド大乗経典を専門としている筆者自身も、研究に際してはチベットに伝わる資料は欠かすことができません。しかし、「無」を基調とする視点のみから仏教全体を規定しようとする動きに対しては、やはり行き過ぎであるとの感を禁じ得ないのです。
龍樹自身はなんと説いていたのか
桂紹隆広島大学名誉教授は、インド仏教の思想史においては部派仏教や大乗仏教の別を問わず一貫して、「無」を基調とする潮流と「有」を基調とする潮流の二つがあったという、大変重要な指摘をなさいました。(「インド仏教思想史における大乗仏教—無と有の対論」、『シリーズ大乗仏教1 大乗仏教とはなにか』所収、高崎直道監修、春秋社、1011年)。その上で桂教授は、有と無とどちらか一方だけを仏教の正統と捉え、他方を異端視する態度は、釈尊の禁止された「極端(二辺)」であり、承認できないと述べておられます。筆者も桂教授と全く同じ意見です。「有」と「無」の「極端(二辺)」を超えたところに無上菩提へと向かう〈中道〉があるというのは、釈尊自身が初転法輪の中で説かれた教えそのものであるからです。
そして実はこのことは、龍樹自身もよく弁えていたことが確認されています。
《諸仏によって”アートマンは存在する〟と暫定的に説かれた。”アートマンは存在しない〟とも〔暫定的〕に説かれた》(中論頌 十八・六)
出店は、龍樹の代表的著作とされる『中論頌』です。ここでいわれる「暫定的」とは、〈三法(四)印〉と同様に仏教の根幹を形成する、仏教徒全員に通じる断定的教説・教説の枠組みとしてではなく、「悩める衆生一人ひとりに応じた個別の治療薬・処方箋として」という意味です。いかがでしょうか。さすが、インド大乗仏教を代表する大論師です。はい、そうなのです。「無」の潮流にあるといわれる中観派の開祖である龍樹その人が、「諸仏は衆生を涅槃・覚りへと導くため、相手に応じて時には”アートマンは存在する〟と説き、時には”アートマンは存在しない〟と説いた」と、きちんと理解していたのです。「無」の潮流のみをもって仏教全体を覆おうとする人々、「無」の潮流・「無」の教説を個別の治療薬・処方箋ではなく〈三(四)法印〉と同様に仏教の根幹を形成する、仏教徒全員に通じる暫定的教説・教説の枠組みと見なそうと試みる人々は、まず龍樹のこの理解に耳を傾けるべきだと思います。
いかがでしょうか。「釈尊はアートマンの有無について〈無記〉を貫いた。だから、アートマンの有無を論じてはならないのだ。もし論じるならば、それは仏意に背く行為だ」という批判が、正鵠を射ていないものであることが明らかになったと思います。むしろ龍樹の理解やインド仏教思想史を無視して、「無」の潮流のみが仏教だと頑なに主張する態度のほうこそ、かえって仏意に背くものといえるのではないでしょうか。
以上のような論考を基盤として「空」について改めて捉えていくことが適うことでしょう。
釈尊以来龍樹までは正確であった理解が、その後から今日に至るあいだのさまざまな信条的手垢によって歪められてきた認識が主流であったということの対社会的背景は注目すべきところですが、かといって大勢であることを持って、釈尊の仏意であるとの決着はそれ自体が佛道的ではないことは確かです。