本日のリレーブログ 担当は野村 泰弘です。
いきなり過激なタイトルで失礼しました。
でも、人間誰しも生きていたら思ったことありますよね。
私もまだまだ修行不足でこの様ないけない心を起こしてしまいます。
研修所では毎朝、法話練習をしております。
毎日、毎日、夜遅くまで、あーでもない、こーでもないと悪戦苦闘し、
産みの苦しみを味わいながら、法話を一生懸命作っています。
法話が終わると必ず、研修員、先生方の順番で法話の講評が行われます。
「もっとこうすれば、良くなるのに」、「ここはなんか言い回しが違う」
等、発表した法話の改善点を上げて頂くわけです。
ここが研修所の良いところで、普段、自分の法話に注意をしてくれる人なんてそうそういません。
本当に貴重な場所です。有難いです。
めでたし、めでたし・・・・・・・
と、まぁ、これで話が済めば、平和解決ですが、それでは終わりません。
なんせ今回のブログのタイトルは
「てめーに、言われたきゃねーんだよ!」
ですから。
やっぱり、夜中遅くまでかかった法話がもろくも、儚く、
講評というマシンガンで蜂の巣にされていきます。
しかも目の前で!
「話し方が早いよね」
「法華経のどこに説かれているのか?典拠を示してください!」
「日蓮聖人はそうお考えになったのでしょうか?」
「結果、言いたいことがわからない」など、
厳しい言葉も多いですが、もちろんそれ以外にも日によっては
「感動しました」、「もっと聞いていたかったです」と有難い講評をもらう時もあります。
ですが・・・
あまりにも厳しい事を言われた時は、思わず・・・
「てめーに、言われたきゃねーんだよ!」
と思う事もあったりなかったりしています。
しかし、心が落ち着いてくると
「うん、でも俺の為に言ってくれてんだもんな。改めよう、自分の心を。いい仲間を持ったな。」
と思えるようになります。
めでたし、めでたし
では、なぜ最初から講評を受け入れられなかったのでしょう?
それは、自分が情熱を注ぎ込んでいるものだからこそ、
自分の考えを認めてもらえない寂しさがあったからです。
皆さんの生活でもそうじゃないでしょうか。
一生懸命、仕事や勉強をしているのに、上司や先生、親から
「もう少し、ここをこうしなさい!」
「この資料はまとまりが悪いから、直してくるように」
「なんでこんな問題も解けないんだ!もっと勉強しろ」
言われた時に一所懸命やった分、
自分の努力を認めてもらえない寂しさや怒りが生まれ、相手の言っている事が耳に入ってこない、助言を受け入れられない。
せっかく自分のことを思って言ってくれている大切な一言でも頭が熱くなってしまって聞き入れず、自分の努力、頑張りを分かってくれない相手についついイライラしてしまうものです。
でも、そんな時に
「俺のことを思って言ってくれてるんだな」
と相手の事を受け入れられれば、少しずつではありますが、相手の注意が有り難く感じ、
心に残っていくものです。
注意をしてくれる人間にイライラせず、感謝をしましょう。
その人はあなたのことを思ってくれています。
その人との出会いが、その厳しい言葉が、人生の財産になっていきます。
より良い自分を作ってくれるのは自分を褒めてくれる人よりも意外と口うるさく言ってくれる人なのかもしれません。
まあ、この私のブログを読んで、私に対して
「若僧が!てめーに、言われたきゃねーんだよ!」
と思った方もたくさんいらっしゃると思いますけどね・・・
以上、まだまだ修行不足の野村泰弘でした。