はじめまして、こんにちは 日蓮宗布教研修所‐研修員の嶋田一成です。
私は過去にmixiやらTwittreやらで炎上した経験が多数ありますので、
やや緊張気味でございます。どうか、話半分で見てやってください。
さて、あと何回更新できるかわからないこのブログで、
何を書こうかなぁ、と考えた結果、私が書くブログのテーマは
『宗教!?それ、やる意味あるの?』 です。
私が友人と一緒に遊んだり、食事をしたりする時に、
よくこの質問をされますので、このテーマに決めました。
たった数回のブログでこの質問に答えるのは非常に愚かでありますが、
『宗教をやる意味』について書いてみよう、と思います。
とはいえ、私個人の見解から書き記すものですから、話3割くらいに受け取ってもらい、
眉に唾して読んで頂ければ幸いです。
確かに宗教は無くても、今日の実社会に生きていくうえで、困ることは少ないでしょう。
ですが宗教は社会の中で、行事・教育・政(まつりごと)などをスムーズに進める、
潤滑油的な役割を、数千年にわたって担ってきた歴史がございます。
具体的に、宗教経典の編纂は識字率の向上に貢献し
宗教行事は商業・流通の発展に貢献し
宗教者が社会や部落の長を務める事も少なくありません。
宗教が無かったならば、現在の私たちの生活は今日のように発展しなかっただろう。
という事は、歴史が証明するところでございます。
さらに宗教は人々の精神面の支えになってきました。
有名な言葉に『宗教的苦難は、同時に現実の苦難の表現であり、
現実の苦難に対する抵抗でもある。宗教は抑圧された人のか嘆息であり、無情な世界における心であり、そして魂なき状況の中の魂である。それは民衆のアヘン(鎮痛剤)である』
というものがございます
また、虚空山彼岸寺著『お坊さんはなぜ夜お寺を抜け出すのか?』の110ページで語られている「宗教とは何か」の項目が、真に正鵠を射ていますので、著者に対する敬意の誠を示すとともに、一部を引用させて頂きます。
『(宗教は)一度足を踏み入れたら思考を停止するよう誘導され、盲信した果てにとんでもない不幸に着地させられる似非宗教による被害が跡を絶たない(中略)しかし、宗教の大事な要素は、人の思考を停止する事とはまったく逆の、人の思考を開放することにある。(中略)本来の宗教は人を自由にするものだ。』
ここに書かれているように、宗教の思想は我々の想像を超えた、
様々な示唆に富んでいます。
その教えに触れることで私たちは、それまでとは違う自分に成る事が出来るのです
実際に自分は自分の信仰する宗教が「現実の苦難」に対する鎮痛剤となって、
苦悩を取り除いてくれた経験を数回しています。
その経験譚は次回以降に回すとして、今回はこの辺で、失礼します
お読み頂き、本当にありがとうございました。