宝篋印塔

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 こんばんは。副住職です。
 ホームページのごあいさつ欄にも書いてありますが、大久寺は江戸時代の初代小田原藩主大久保忠世公によって建立されたお寺です。その為、大久保一族の墓所が今も残されており、小田原市の指定文化財にもなっています。春や秋頃のハイキングシーズンになると、史跡ガイドさん引率のもと、多くの観光客の方が来られます。
 先日、一人のガイドさんが下見に来られ、色々教えて欲しいとのことでした。私はもちろん承諾。こういった件はたまにあるので、はいはいお任せあれと、大久保家の墓所へ向かおうとすると、ガイドさんに途中で引き留められ、「こちらなんですが....」と。ガイドさんは大久保家の墓所より、その手前にある、大久保家とは関係のない石の塔について聞きたかったようです。
 ...盲点でした。その塔についての知識ほとんどないです...。寺にいる者としては、何の疑問も持たない仏塔でしたが、外の方からすると4mくらいの大きさなので気になるそうです。知らないものは仕方ない、ということでガイドさんと一緒に塔に彫られている朽ちかけの文字を解読しました。全部は把握できませんでしたが、
「天保十四年十一月吉祥発起主當山十九世日就」 「宝塔寄附之面々并代々菩提家門繁栄」 「為題目講中現安後善所願具足心大歓喜而已」 「天下泰平国土安穏五穀成就万民快楽」
 の文字が見られました。天保十四年(1843)ということで、今から172年前に先代住職の日就上人という方が建てられたということです。なんとまぁ、そんな歴史あるものをほったらかしにしてたのかと反省。そして、日本の平和やお檀家様をはじめとする日本人の幸福の願いが込められているようです。仏塔というのは、もともとお釈迦様が「塔を立てて供養すべし」と説かれているように、亡き人の菩提・弔いの為に建てるもので、国を越え時代を超え、色々な意味・形となって今に伝わっています。大久寺にあること石塔のタイプは、宝篋印塔(ほうきゅういんとう)と言い、仏塔の中でも高貴なものだそうです。
 いやはや、何はともあれ、色々と分かってよかったです。しかし「灯台(塔台)もと暗し」とは良く言ったもので、身近過ぎて気にも留めないことってあるものですね。私にこの塔について勉強する機会を与えてくれたガイドさんに感謝です。もしかすると、「もっと勉強しなさい!」という、塔を建てられた先代住職日就上人のお使いの方だったのかもしれません。
 

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