本日は日蓮さまのご命日。お会式のいわれ

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先(まづ)臨終の事を習(なら)ふて
 
後(のち)に他事(たじ)を習ふべし
 
妙法尼御前御返事(みようほうあまごぜんごへんじ)
 
日蓮聖人は弘安五年十月十三日、午前八時頃、
池上宗仲公の館で六十一歳の一生を閉じられました。
この時、地震があり、邸内の桜の木が一斉に時ならぬ花を開いたといわれ、
お会式で万灯の供養の時に桜花を飾るのはこのいわれに基づいたものです。
 
日本第一の法華経の行者、み仏の使いとして、
「立正安国論」を建白してこの日本国のあやまちを正し、
いっさいの人々を法華経の道に導き救済するために
身命をささげられた日蓮聖人の広大な徳をほめたたえ、
その教えを受け継いでいく誓いをこめ、報恩感謝の誠をつくす日です。
 
経一麿(きょういちまろ)への遺言
 
死期の近づいた事を悟られた日蓮聖人は、
十月十一日に枕もとに経一麿(日朗聖人の親戚で、当時最年少の弟子)を招いて、
 
「我は関東の教化布教に留まって、京都に教えを広められなかったのは残念である。
汝は早く剃髪し、修行を積み、成長の上は京都に上(のぼ)って、不惜身命、布教に努めよ。」
と都に上って布教する事を委嘱されたのです。
 
後に京都町衆の支持を得て、妙顕寺などを建立した日像聖人となるのが、この経一麿です。
日像聖人のゆかりの寺が京都松ヶ崎に十ヶ寺ほどあり、そこでまつられていた大黒天が
小田原の板橋にあった蓮船寺にどの様な経緯で遷(うつ)されたのかは
残念ながら今では不明です。
松ヶ崎のお寺は織田信長の時代に弾圧を受け、焼き払われたそうですが、
焼かれたお寺の大黒さまがどういう訳があってか小田原に遷座されたという事なのでしょうか?
 

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