八正道:正しく見ること(正見)

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正見(しょうけん)、正しく見る、適切にしっかりと物事を判断することは、仏教の基本であると言われます。正しくものを見ようとするのは人間だけなので、かえってわたしたちが正しくものを見ることができない場合が問題になります。ひとが間違ってものを見る場合を、生理的なもの、文化的なもの、個人的なものの三つに分けるとします。
 
 
ウホァーウホァーウホァーウホァーウホァー
ウホァーウホァーウホァーウホァーウホァー
ーァホウーァホウーァホウーァホウーァホウ
ーァホウーァホウーァホウーァホウーァホウ
少し傾いて見えると思います。このような錯視は、もっとも生理的なもので、たとえ仕組みがわかったとしても、その歪みを取り除くことは難しい。こういったことは、わたしたちの感情や直感のいくつかにもあてはまり、ものの状態よりも変化にとられわたり、全体よりも部分の釣り合いにとらわれるといった傾向が知られています。
また文化的な、というのは、ものを見る正しさが時代や文化に影響を受けているということです。
「もし切腹しないとでも言ったら、母はさぞ驚いたことであろう。」
『阿部一族』にて、主君の死に殉じようとする17才の少年の心情を、森鴎外はこう描写しました。彼は酒を少したしなみ、昼寝をした後、切腹するため菩提寺へと向かいます。江戸時代の死生観は今のそれとはかなり違っていたかもしれません。
同じように太平洋戦争の時の日本人と今の日本人とではものの見方が同じとは言えません。
また、言葉の影響も大きく、たとえば「危険!」と書いてあれば、わたしたち日本人は思わず身構えますが、日本語を知らなければそうなりません。
一見、正しく物事を判断しているように思っても、時代や言葉という文化的背景が影響しています。
個人的な経験もものの見方について大切な役割をはたします。
たとえば「犬」と思い浮かべると、様々な種類の犬から、犬とはこういうものというイメージが想い浮かびます。その犬の形はひとによって違う。記憶の中にある慣れ親しんだ形が、ものを見る際に、周りの印象を前もって形作ります。
ある時、密林の中で一生を過ごすピグミーを探検家が初めてサバンナに連れ出したそうです。遠くにバッファローが見えました。それを探検家が知らせると、
「あんな小さな黒い虫が大きなバッファローのはずがない」*
と彼は大笑いしたと言います。
これまで「遠く」を見たことがなかったそのピグミーには、とっさにものの遠近感をつかむことができなかったのです。
 
ひとは生活においてほぼ正しく適切な見方をしています。あらゆることで間違っていたら、一日も生きていくことができなくなるからです。
ただ時として、間違った見方が入り込み、それには普通気づくことがありません。そして気づくことなく問題が起こってしまいます。
「正見」は、八正道の最初ですが、次の正思(正しく思うこと)とともに智慧に分類されます。この正見と正思の中に、八正道のすべてが集約されるものです。これは、正しくものを見るのがいかに難しくかつ大切であるかを物語るものでしょう。
正しく見るとは、正しくものを見ることが難しいと知ること、そして自らの見方を常に改めていくことのできる姿勢を保とうとすることでもあります。
*"Some Obsevations Regarding the Experiences and Bhavior of the BaMbuti Pygmies" by Colin M. Turnbull, 1961
*図の横線はミューラー・リヤーの錯視。縦線はダニエル・カーネマンによる人間の直感的判断の平均値への偏りを示したもの。

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