博愛と余慶~追伸として

この記事は最終更新日から1年以上経過しています。
記事の内容やリンク先については現在と状況が異なる場合がありますのでご注意ください。

余慶の善行という足場に立つことを覚え、いよいよ宗教的な高揚を感じるようになったならば、その方にはあとはよりファジーな精神論を持って世間に立って行動してもらうしかない、そう私は思います。

自分で言ってて話が飛躍し過ぎて伝わりにくいだろうと思いつつも、誤解を恐れず言わせてもらいます。

『エビで鯛など釣れないことを知ること』

鯛でエビを釣ろうとするぐらいで、ちょうど貪りの心から遠ざかるのです。

影は自分につき従うもの。貴方の業の報いとして影はそこに現れるのです。自身の影の形が最近気味が悪いと思うようならば、それはきっとファジーな精神を保てずにいるとき。

教えのたった一句、一偈を乞うために我が身を悪鬼に差し出した仏さまのお姿こそ、ファジーな気持ちの正体、いわゆる布施の心。

その反対側にあるものの正体が、
貪りの心。

昭和の時代は、そういうモチベーションの方々が多くいらした時代だったのではないかな?

今の世相、人の様子はどんなものなのでしょうか。

私が感じるには、伝わりやすさを追求する技術的なものに振り回された口業を持つが人、結局安っぽいポピュリズム、或いは左派、右派に振り回されてしまって何がなんだかわからないような人、人間なのかAIなのかわからないような人が人前に出て喜ばれている、そんな平成令和の時世を迎えているような気がしてなりません。

私には世間に貪りの心が蔓延しているように見えてなりません。

いくら技術を磨いても技術にてっぺんはありませんから、技術の練磨に執心するならば、てっぺんなくこの先も尽きない悩みに惑わされます。

様々な技術の習熟も個々の生活の現場の安定には大切なのでしょうけど、こと人間の心ひいては社会の安定平和まで考えるならば、誰にでも迷わず教えを乞えるようなファジーな気持ち、すなわち布施の気持ちの習熟を志す人が巷に溢れること以外の大事はありません。

ファジーは『大きい』という意味。菩薩は『大きい人』という意味。我々が仏教徒が目先すのは小手先、目先の利く人ではなく、ファジーな人つまり菩薩であることを今一度我々日本人は深く自省してみなければならないのではないでしょうか。

 

この記事は最終更新日から1年以上経過しています。
記事の内容やリンク先については現在と状況が異なる場合がありますのでご注意ください。

一覧へ