皆が持っているものは
ほとけの心
お釈迦さまがそうおっしゃるのだから間違いない
仏の心を持っているのかいないのかを
気がつこうが気がつくまいが
それはどちらでもよいこと
大切なことは
仏の心を吐き出す
力があるかどうか
その力のことを信仰心という
感情とも違う信仰心というもの
悟性とも違う信仰心というもの
言ってみれば、感情と悟性のこんがらがりが迷いという気持ちであり、言ってみれば、その迷いが己の仏心という良薬を覆っており、ちょうど風邪薬のカプセルのようになっている。
良薬を覆うカプセルが悪いのではない。信仰心という時に応じて仏の心を呼び覚ます力さえ信じ備えておれば、その力はいつでもカプセルを壊し中の仏さまから授かっている薬を私らはいただける。カプセルは無くてはならないもの。仏の薬は時に応じていただくものだから。大切なのは、時に応じてそのカプセルを溶かしてしまうような力、信仰心であるのだ。
信仰は時節というものと関連が深いものなのである
働きもせず、朝から晩まで、毎日毎時、お題一辺倒の暮らし、そんなものが本当の信仰ではないが、
信仰心があっても、お父さんお母さんの命日に手を合わせないことは、時節ということを知らな人であること。いざ時を知り、信力を用いることが大切なこと。
日日の生活で高じた迷いを取り除く一人で励むお題目
社会が混迷の中にある時皆で唱えるお題目
時を知り
感情と悟性と信仰心が混ざりあわせることは
結局、仏の力に等しいのだ
感情一辺倒ではいけない
理性一辺倒ではいけない
信仰一辺倒ではいけない
時節も知らなければいけない
そのように思うと、
仏さまのいう八不中道というものに
通じてくるのではあるまいか。
なんとなくであるが。