仏像をみること

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たくさん生がっているようでも
   一個の命。草や木のことです。

ずっと、そこにあるようでも
   冬になれば土に還る。
     

景色として見ているものには、
   そこには命はやどらず。

ものに命を吹き込むのは、
   私たちの慧眼に他ならず。

智慧の慧の字は
  自他の区別を越える道を探す気持ちのこと
自分と他人は何にも違わないが、

自他の区別を立てて相手と向き合うのであれば、
自分は自分になり、相手は相手となる。

相手を自分と同じと想うとき、
その相手はわたしのよき伴侶となる。

相手に命を吹き込むのは私の慧眼の力である。
一本の草や木は風景になるために、そこにはあるものではない。
私が仏の眼をもってちゃんと観れば、草や木には本当の命がやどる。私が仏の眼もって魂を込めてちゃんと観れば、石や一粒の砂にも命はやどる。

そのようなちゃんとした気持ちをもって仏像をみつめてみるのです。

 

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