お供物のバナナ

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下の男の子は晩のお勤めに来てくれる。

お勤めと言っても題目しか唱えないが、真冬でも寒い本堂に毎晩自分から来てくれるのは私は嬉しい。

お勤めが終わってから、ご宝前の供物を子どもはのぞく。バナナが好物なのだ。私は分けてあげたい、一生懸命お勤めをしてくれたからご褒美にあげたいと思うが、子どもは、お母さんに食べてもいいのかの許可を律儀にも取りにいく。大抵ダメと言われる。

お母さんは子どもの身体を心配して夜にたべてはいけないよと言うのだ。子どもは母親の言うことを聞いてバナナを食べるのは諦めるのだが、母親がいよいよ深く自分のためを思って言ってくれているのだということまでは気がつかないだろう。

お経にはいまいち理解し難い言い回しや表現が多く、そのためにお経の真意が理解出来なくて困ることはしょっちゅうだ。言葉の字義は理解できても、なぜこの手合の言葉を何度も何度も繰り返し使うのだろう?と疑問に思いながらよむのだから、いけないことだが正直その経文が出てくると煩わしく思ってしまう。

特に数量に関する表現はお経は独特であるように自分は感じていた。
…各お経によって表現の差はあるが、たとえばガンジス川の砂の数ほどの…、世界界(世界界で良いのです)の塵の数ほどの…などと表現されている。そしてその膨大な正数になるものの正体はというと、仏や菩薩さまの教えやお力について、或いは仏さまの知る真実の世界そのものであったり、またその世界の備える力などの数量なのだが、結局は計ることも出来ない様子の例えるために経では世界中の塵の数とか大河の砂などを引用してその数量を説かれている。

これは私には大変困ったことてあった。いわゆるただ過剰な表現にしか私には聞こえず、たくさんお経の中に出てくる言葉だから、お経は大切に読みたいのにその部分はぼんやりした気持ちでしか読めないからだ。ということは、お経の多くの部分はぼんやり読んでしまうことになるのだから、僧侶としてあるべからざることになってしまう。本当に困っていたのだ。

『「無量」かぁ… 「塵の数の量」かぁ… 「砂の数」…「比べようがない」「言い尽くせない」…かぁ…。』

仏さまは真実をすっかり説くとおっしゃっているのに、おっしゃって下さらないのか、と困っていたが、先の母子のやりとりを聞いていて、「意地悪でないにしろ、母親がバナナをくれない」と考える子どもの気持ちと、私のこの困り事は一緒であると私はふと感じたのだ。ありがたいことに、「無量」とか「塵の数の程の量があり全てを超越して比べようが無いぞ」という仏さまに突き放されたような気持ちにされていた言葉に、仏さまの本当の慈悲の底深さ、それこそ測りようもないほどの慈悲を感じることができたのだ。

『 説き尽くせないものは説き尽くせないものなのだ 』仏のみ心もそのみ心から顕れる慈悲の量も、世界の真実の姿もとても言い尽くせるものではないということを知ること、それが真実を垣間見るということなのだと。

母親の子どもへの愛情を子どもに伝えようとしても、相手が子どもなのだから子どもに言葉を尽くしてもとても知られるものではない。

だから、無量とか塵の数とかガンジス川の砂の数であるとか言う言葉は決して曖昧でボンヤリした言葉なのではなく、正に真実の数を説いた言葉なのであると、母親がバナナを子どもにあえてあげない様子を見て、ご宝前で知ることが出来た。

ご宝前で子どもとお題目を唱えたあとの出来事である。こういうことも、自分の身に起きたことだから信じられるのは自分だけでしかないが、仏の無量の慈悲の気持ちによるものであることは間違えない。

その「説き尽くすことの出来ない仏の浄らかなる法身」をお題目の七字で「説き尽くす」道を、理解を、与えてくださった日蓮聖人は…すごいのです。

本当に凄いお方なのです。

 

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