例えば、家族でドライブしていて昼に何を食べるのかを決めるときに、それぞれ意見を出してもらうとします。上の子どもは回転寿司だと言うし、下の子どもはラーメンがいいと言う。めいめい自分の意見を言ったのだ。意見とは、少なからず断腸の思いが伴った決断でもある。一つの意見を持つということはそれなりにご苦労なことなのであります。なぜなら一方の意見持つということは、反対の意見を捨てるということなのですから。実は我々は、『捨てる』ということはあまり得意ではないのです。その為お釈迦さまは『適宜に捨てる』なる喜捨という徳目をつくられ、その修行を我々に勧められているのです。さて、信仰とは何かということですが、昼ご飯はラーメンにするか寿司にするかということも大切な決断でありますが、それは行き掛かり上迫られた決断であり、また選択といえます。一方、信仰というのは一生の間に3回も4回も転々とに主張を変えて良いと思えるようなものではないのです。してはならないという決まりもないのに皆がそうしないのは、信仰という主張または選択がラーメンか寿司にするかを決めるような選択と同一ではないことを我々は直感でよくわかっているのだと言えます。仏教らしく、『~に非ず』の表現でこの事を言うのならば自分は信仰を『行き掛かり上の選択ではない選択』と言いたい。すると信仰とは、めいめいそれぞれの私の一生間内での体験観などでは解決できないものということにならないでしょうか。もっと言うのならば、色々な教えはあっても私個人の一生の前後の生まで見通した教えでなければそれは宗教とは言えず、また正しい教えとは言えないのであります。「正しい教え」というと訝しく感じるお気持ちは十分よくわかるつもりですが、その区別は厳然としてこの世にあるということは皆さまに存じてもらいたいなと思います。思想の面だけでなく命の神秘についても教示されている仏教経典は、ずばり法華経であり法華経のみです。法華のご信者は密かに自信を持っていただきたい。ですがだからと言いまして他の信仰を誹謗するのは良くないことです。なぜなら、生まれながらに正しい信仰を持っている人間なぞこの世にはいないのです。法華の信仰をする人だって、自分以外の誰かから法華とのご縁をお世話してもらって法華経を信仰できているのであって、赤ん坊の時から法華経を信じてましたなんて人は居ないのです。とにかく、法華経の教えは素晴らしいということと、一生涯の諸事情による行き掛かりの選択や分別を超越した何かを我々は一生間でしっかり選択し、それを生き方の上に反映させることが信仰生活の在り方であるということをここに綴らさせてもらいました。信仰について真剣に考えことは、まさに人生の一大事であります。