分別する力こそが私たちの心の大切な働きと言えます。その「心」が何をかを選ぶという分別によって私たちが何を意思し、何を語り、何を為すかが決定するからです。ですから正しい分別もあれば未熟な分別もあるのです。正しい分別に基づいた行動であれば自ずと結果も正しくなるのですからいよいよ仏さまの説かれるところの分別は大切な教えであります。正しくない分別のことを妄分別といいます。妄執の分別と考えれば解りやすいのです。妄とはいわゆる自己中心的な考えということです。私たちはどうも一人で生きられるものでは無いようですのにその本来の性質に背いて自分の勝手な考えてと行動をすることを「妄」、そしてそれを止まないことを「執」とします。その妄執による分別を世間で実践すれば自身の性質とは異なる一人きりでの生存となる。それは大変に辛いことです。苦い経験とか失敗とか言われるものはそれらの妄執から発生した経験によるものではないでしょうか。それでは妄はどこから私の心にやってくるのかといえば、私には「私」があるという妄想の島からなのです。仏の教えに導かれて得られる「私」とは、我ではなく無我(別ブログに掲載)の発露としての何かであります。その何かのことを法身(別ブログに掲載)と申しますが。私たちは有難いことに誰でも法身なる「私」を持っています。私の奥深くに真理に匹敵する私がいるということを教え説いて下さるのが仏様の教えであります。まさに有難いことであります。まずは世間でいうところの私と出世間の私との混同をしないことが妄分別を離れる分別の原点であるともいえます。ところで唐突のようですがこのたとえ話を見て下さい。≪小学校の教諭が教え子に喧嘩をするなと指導したとします。ところがその先生が映画を見に行く道中足を通行人踏まれたとき「コノヤロー」と踏んだ相手に怒鳴ってみたところ、同じく映画を見に来ていた教え子にその様子を見られて先生にこう言います。「なぜ先生はいつも喧嘩をするなと言っているのに喧嘩をするのですか?」すると先生はこう答えた。「今は休暇の日だから怒っても構わないのだ!」と。≫本当を言えば誰にも私なんてないはずです。そのような無いものを有るように「公私の別」などと言うから子どもたちも大人も混乱してしまうのです。あってもそれは便宜上のものであり本当は無いのです。世間にこの身を委ね生かさせていただいている以上そもそも自己中心に過ごせる時間など無いはずです。身体を休める休日はあっても妄分別が作り出す「私」を満たす時間などは本当を言えば無いのであります。しかしあまりにも性急すぎることを言っても、高校生にお酒を飲ませようとしても無理なように、人それぞれその身を置く段階であったり、歩んでいる道やその歩みの速さも別々でありますから、それも便宜上良くないことです。奥深いところの私をいつの日か発揮されることを願うことだけは忘れないでいるという三昧(別ブログに掲載)を頂く程度に思っていただければ幸いに存じます。