無量

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この言葉もお経のなかには相当数使われています。仏さまの持つ様々な力を無量であると言ったり、仏さまのお考えの深さが無量であると言ったりするときに多く用いられます。「無量」は数を量ることが可ではなく無理ということですが、何も仏さまはご自身の教えの尊さを誇るがためにこの言葉を選ばれて使われたのではないのです。それこそ仏さまの持つ一番強い力、慈悲心よりホトバシられたお言葉なのです。無量なる言葉には、仏さまが無量と教えて下さったことに私たちの短い一生涯の中また限られた力を用いてしまうことへ憐憫のお気持ち示されているわけであります。何故ならば、仏さまの教えの素晴らしさを疑い一生を通ってみても、「あぁ、やっぱりお経に説かれている通りだった。あの時分
の私の考えはなんて浅薄だったのだろう」といつか後悔するしてしまうからなのであります。仏は一切の生命を親が子を想うように心から慈しめることが出来た方であり、その仏さま以上のお気持ちになれないものが仏さまの教えを疑っても詮無きことなわけで、それはちょうど世間で言うところの「親の心子知らず」と同じなわけです。親を憎しと思って生きてみても「孝行しようと思ったとき親は居ず」と世間の人は後悔の念を込めて方々で呟いております。自分より上位といえる人の真意は時を大幅に経なければ知ることが出来ないことは仏様の教えのことのみならず世の常と言えます。ましてや相手が人類史上最も広大な慈悲心をお持ちになっていた方なのでありますから、仏がそうだとおっしゃられた言葉をすぐに飲み込めなくても吐き出すという筋は無いわけです。以上のことの核心は、厳然な真実として私達が持ち合わせている心の数は一つであるということです。一生の間にその一つしか無い心をあちこちに散らしていては色々やっているようでも結局何一つ出来ずに死んでしまうことになります。そんな虚しい人生を過ごしたく無いと思うのが人情でしょう。仏さまはその慈悲心を以てお経の中に「無量」と言う言葉を以て我々のたった一つしかない命を無闇に費やすべきでないものをお示しになって下さっているのですから、私たちはありがたくこのお言葉を頂戴いたしまして無量なる仏様の有難みを信じて行くことが大変有益なことであると存じます。

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