衆生

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お経のなかには頻繁に出てくる言葉です。シュジョウと読みます。先に述べました凡夫と同様に私たちのことであり仏様の慈悲を頂く側のことなのですが、範囲は人間のみならずすべての生き物が衆生なのであります。私たち人も、天界に棲む神様も、海のなかの生き物たちも、地上や地中で這ったり潜ったりしている生き物も、俗にいう幽霊やなんかもすべてが衆生です。仏様の教えの素晴らしさはズバリはここにあります。魚であっても、幽霊であっても、人間より優れた何かであっても、虫であっても、花であってもそれらは仏になれる可能性については等しきというところに仏教は注目します。そういう視点で行くとどの命が上位でありまた下劣であるという差はつけられないわけです。生まれもった魂に下劣はないのですから、どんなに今までつまらない生活をしてきても、あるいは悪事をやめられないでいる人も、行きがかりの悪事を捨ててるという熱心さ、そして心を入れ替え自分も仏様のようになれるよう努力を続けていくという熱心さ、仏様の教えによって刺激を受けた心がこの二つの熱心さを取り戻すことができたなら、誰でも仏になれるわけです。仏様の教えによっておおいに発奮して救われるべきは人は善良に生活できる人よりは、むしろ思い切って悪いことをしてきた人なのかもしれません。思い切って悪いことができた人がもし心を入れ替え仏様の教えとともに生きる決心をして世の中に立つならばどれほど大きなことをするかわからない、と私は思うのであります。一切の命は絶対の平等。どんなあり方で生きて暮らす存在であろうとすべてが仏になれる。そいうもう途方もないくらい思い切った仏様の慈悲の力が衆生という言葉に込められているのであります。お経の中で衆生という言葉にぶつかるたびに仏様の慈悲深さに心を打たれる、そんな読経の行をおすすめいたします。

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