人は毎日の生活で色々な人と関わり、知らず知らずのうちに助けてもらったり助けられたり、迷惑を掛けることもあるでしょうし、掛けられることもあるでしょう。自分では大したこともしていないのに大変に有り難がられ感謝されたりする事もあります。精一杯力を貸してあげたのに御礼の一言もないと言うこともあったりします。
毎日の月参りでお経をあげさせて頂き、御回向の後に何らかのお話をして帰るのが常となっておりますが、先日あるご家庭で「恩知らず」というほうに話が進んでいきました。
お参りさせて頂いた家の奥さんのお話では、古くからお付き合いのある知人に色々とお世話をし相談にも乗った、頼み事が有るとその人と一緒に先方の家にも行き一緒に頭も下げた、最後にはお金を貸して欲しいと言われて自分で工面できる金額を貸してもあげた。しかし、最近では道で逢っても相手のかたは挨拶もしなくなったと言うことです。相手のかたが困った状態を解決されて、順調にお商売もできるようになったら知らん顔をされるようになった。
「あれだけ色々と頼み込んできてなんと薄情な恩知らずな人」と大変ご立腹でした。
その奥さんの話を聞き、自分の事を振り返ってみると身延山の学生時代は言うに及ばず、卒業後も多くの人に何かと助けて頂いてその恩を忘れてはいないだろうか、反省することが多々ありました。
人のお世話をしたことは小さなことでも記憶の中に残りやすいものですが、お世話になったことは次第と忘れていきやすいものです。
世間で時に聞く話の中には色々とお世話になりながらも何かの一言で恩人にたいして「恩着せがましい」と感謝するどころか逆恨みにまで発展ということも言うこともあります。苦しいときは何かとお願い事、頼み事が多くなるのは誰しもの事です。しかし、その後の心がけが大切なのは言うまでもありません。
日蓮聖人は「聖愚問答鈔」の中で
恩を知るを人倫と名づけ
恩を知らざるを畜生という
厳しく、忘れてはいけないお言葉です。
皆様も人に対する恩はもとより、御法に対する恩、お釈迦様、日蓮聖人に対する報恩を忘れてはいないでしょうか。
苦しいときの神頼みではありませんが、その場限りの信心信仰で、それが解決したらお寺参りも、手を合わすことも無い、と言うような事に成らぬようにますますの御信心にお励み下さい。