「日常の反省」1992年に書いたものです

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 自分の行いの中で同じ事を何度か繰り返している内に最初は気を張りつめ、神経を使い慎重に行ってきた事も慣れてくると気を抜いてしまう事がよくある事と思いますが、そんなときに判断を誤ったり、思わぬ失敗をしてしまう事は有りませんか?
 今年のゴールデンウイークにも沢山の人があちこちに行楽に行かれました、海外に行かれた方もいらっしゃるでしょうし、遊園地や温泉に行かれた方もいらっしゃるでしょう、そんな中で春山登山にも沢山の人が行かれました。私も少し登山の経験が有るのですが四月下旬から5月の中ごろの山の天気は変わり易く、特に残雪のあるような高い山は天気が崩れたり雪が降ったり遭難の危険も大きくなります。
 私の友人に3年ほど前から登山に興味を持ち時間を見つけては山に登っている者がいます、最初は経験者と一緒に登っていましたがもう3年目、「今年は気のあった仲間と出かける。」と言って穂高の山に出かけて行きました、連休が終わって友人に電話をしてみると元気の無い声で「山で遭難しかけた」といいます、幸いに命に関わるような事は無かったのですが友人が言うには「山に登りはじめて3年目、今までなら慎重に成って無理をしなかったが今回は大丈夫だろう、という気持ちで強行したのが失敗の原因だった、山を甘くみていた自分が恥ずかしい。」というような事を言うではありませんか、そんな話しを聞きその夜自分の事を振り返ってみました。
 身延山の学校を卒業して9年目、先代の住職が亡くなって4年、僧侶としての生活に慣れや甘えが出てきてはいないか、思い返せばやはり卒業当初の時や、先代住職の亡くなった頃は自分でももっと気を張りつめた毎日を送っていたものでした。しかし時が過ぎるにつれ慣れによって甘い判断でもの事を進めてきていたようです。

 
如来寿量品第十六の中で
「佛が長い間世の中にとどまっていると多くの人々は佛にはいつでもあう事が出来ると言う気持ちで怠け心をおこして悪の道に入っていく、佛が常にこの世におられて滅し無いと見れば、その場合にはおごりほしいままな心をおこして怠ってしまう。私が滅しなければ佛にはなかなかあうことはむつかしいという思いと佛を恭敬する心を生ずる事が出来ないであろう、ゆえに佛は教化の方法として滅度(亡くなる事)するのである。」と説かれています。人は何か大きな事が起こらないと物事の重大さに気がつかないものなのかも知れません。

 皆さんの生活の中でも当たり前に成ってしまって気がついていないだけで気を抜いて行っている事はないでしょうか?車の運転、自分の仕事、その他にも色々とある事と思います。それは毎日の信仰の中にも有るでしょう。朝お仏壇にお供えをするとき中腰でお茶やご飯をお供えしおリンを「チンチン」と鳴らすだけ、まるでお供えと言うよりは物を置いているというような事にはなっていないでしょうか?困ったときは熱心にお勤めしていたが解決するとだんだんおろそかになってきて手を合わす事さえしなくなっている、そんな事はないでしょうか?
 大きな過ちを起こすまえに振り返ってみて下さいしてみて下さい。
 友人の山での出来事を聞き、自分におきかえて反省する事が出来た日でした。

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