毎日、寝る前にお経を上げています。
適度に分け、ひとつのパートを一晩のノルマにしています。
1日分の読経すら辛いときもあれば、
いつまでも読みたいこともあります。
不思議なもので、充実した日ほど読むのが辛いです。
反対に、苦しい思いをしたときほどたくさん読めます。
これはおそらく、信仰という世界の存在感が強まるのが、不条理な体験をしたときだからでしょう。
私たちの中には、多くの人格が存在しているものだと思います。
私は宗教者ですが、その私の中にも信仰に疑いを持ち、
社会の基準のみで考える人格があります。
しかしいざ理不尽な目に遭うと、そういう自分が呆然としてしまい、
神仏に縋りつくしかない自分がまず我に返ります。
その自分がお経を上げ、お題目をお唱えしつつ、
別の人格を丁寧に揺り起こしていきます。
全員が起きることで、通常の人間性に戻っていくように感じられます。
ところが、危機に強いこの人格はまだまだ幼く、
別の性格に対して遠慮しているように思えます。
だから幅を利かせる他の自分に圧されてしまうのですが、
お経を上げ続けることで成長しているように見えます。
少なくとも僧侶になったころはここまで自己主張をしなかったはずです。
逆境のときほど伸びるというのは複雑ですが、
それだからこそ育て甲斐があるのでしょうね。
いずれにせよ、お経が上げられればその自分が生き生きとします。
その人格が元気ですと、集合体である私も嬉しくなります。